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男の名残 9

 母であるアマリエの素性を、ニールは良く知らない。  興味がなかったのではなく、誰も積極的に教えてくれなかったのだ。   物心ついた頃から世話をしてくれた乳母が、しつこく食い下がるニールに折れ、「絶対に秘密ですよ」と条件付きでようやっと遠い異国の地で皇帝に見初められ、つれてこられたのだと教えてくれたくらいだ。  今思えば、おかしな話だ。  当たり障りのない情報でさえ背後を気にしなければならないなんて。 「……なんで、あんたは知っているんだ?」  知らず、声に力が入る。  脅すつもりはなかったが、上質なソファを通してエフレムの緊張が伝わってきた。 「資料庫には、もう行ったか?」  首を、横に振る。 「なら、折角だ。忠告をしてやる」  右隣に座ったために、エフレムの表情は見えない。  気にはなるが、顔を覗き込むのも気が引ける。 「俺がしてやれるのは、知るきっかけを与えてやるぐらいだ。わざわざ隠してある禁忌に触れるか無視するかはお前の自由だが、覚悟をしていけ。これからも、軍で英雄をやっていくならな」 「まるで、脅しだな」  かもしれない。と、エフレムはタバコを取り出して咥えた。  火を付けないのは、ユーリが煙を嫌っていたからだろうか。視界の端で、ちらちらと白い影が踊っていた。 「今、教えてくれないのか? あんたは母さんと……どんな関係だったんだ?」  父である皇帝とアマリエの間に、恋愛感情どころか愛の欠片もないのはニールも感じている。  式典の際、薄く織られた幕の向こうに座る母と、玉座に座る父の視線が交わった場面をニールは一度も見た覚えはない。 「カウニサーリ、そこが母さんの故郷なのか?」  返事はないが、関係がないのに名を出すわけがない。 「陛下の、母さんに対する執着は……オレでもおかしいって感じていた」  皇帝は、アマリエに男だけでなく女すらもろくに近づけようとはしなかった。  他にも皇后はたくさんいるが、アマリエほどに執着している女はいないだろう。 「第三皇后は、美しすぎた。見る者を呪う宝石のように、砂漠にある楽園のように、想像を絶する美女だった」  美女と表現されたところで、ニールの脳裏に蘇るのは、薄幕の向こう側にあるぼんやりとした人影だけだった。  物心つく前はどうかわからないが、ニールは母の腕に抱かれた記憶はない。顔は、肖像画でしか知らない。 「美女だから、国が滅んだって言うのか?」  半ば冗談でいってみせたが、否定する言葉はない。  乾いた笑いが、ニールの口からこぼれる。 「なんだよ、そりゃあ。あんた、何をしたんだよ」  エフレムは深く息をついて、のっそりと立ち上がった。 「資料庫にいけ。悪いが、外でタバコを吸ってくる」 「待てよ、逃げるのか? ここで今、話してくれよ」  追いかけようと立ち上がったニールを牽制するように、靴音が響く。 「逃げる気はないが、うまく言葉にできねぇんだ」  振り返った顔の、今にも泣き出しそうな青灰色の目に、ニールは何もいえずに立ちすくむ。  嘘ではなく、誤魔化しもない。  始めて見るエフレム自身の表情は、見たことを公開するほどに痛々しかった。  タバコを吸いにいくと出て行ってから、随分と時間が経った。  まさか、置いて行かれたか。 (べつに、構いはしねぇが)  しんと静まり返った部屋の中で、ニールはソファに埋もれ、ユーリとの記憶に思いを馳せる。  母や父と隔絶されていた幼少期だったが、自分を可哀相だと思わずにいられたのはユーリがいてくれたおかげだった。  乳母も良く世話をしてくれたし、感謝はしているが家族とは言い難い関係であった。  後宮ではなにかしらの制約があったのかもしれないが、誕生日を初めて祝ってくれたのもユーリだった。 (シナモンの香りのする、ふわふわのケーキ)  ユーリお手製のクリームを添え、毎年、夏の初めに食べていた。  誕生日のお祝に食べるには質素で大人びていたケーキだが、ニールはとても楽しみにしていた。 (ユーリおじさんは、どこで買ってきていたんだろうな)  軍に入りユーリの元から離れてから、ニールはシナモンのケーキを食べていない。  懐かしさに浸りたくて、帝国内をさがしてはみたが、シナモン自体が珍しい香料であるらしく、似たものはあってもおなじものはなかった。  ニールはため息を飲み込んで、ソファから離れた。  背が伸びたせいか、見る景色がどこかいびつに感じる。  窓から差し込んでくる夕暮れの日差しに、胸がぎゅうっと痛みを訴えた。  誰もいない。  おいて行かれたような気分になって、ニールは声を殺して泣いた。      

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