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男の名残 11

 パチパチと、割ったばかりの薪が勢いよく爆ぜる。  ざっと掃いただけで、埃っぽいままの床は靴を穿いていてもわかるほどざらついているが、仕方ない。大掃除をしにきたわけでもない。  積もった埃が舞い上がらないよう足を忍ばせながら、ニールはエフレムと一緒になって、薪ストーブのそばにソファを移動させた。  じんわりと染み込むような暖かさを堪能しながら、住民に分けてもらったシチューに二人揃って舌鼓を打つ。  素朴な味は、素朴な食材が使われているからなのだろう。  エフレムが作るものに比べたら天と地ほどの差があるが、これはこれで、どこか懐かしい気分になって良かった。  ほっとする味だった。 「おふくろの味ってやつかね、悪くはない」  木製のスプーンと皿を手に持ち、エフレムは湯気を立てるシチューにふうふうと息を吹きかけ、ゆっくりと味わいながら食通らしい評価をくだしている。 「文句が多いやつだな、いらないならオレが全部もらうぞ」 「勘違いするんじゃない、俺は美味いと誉めているんだ。いらないなんて、一言もいってないからな」  テーブルクロスのかわりに、ソファーに被せてあったシーツを裏返して敷いた食卓の上には、シチューと一緒に貰ったパンがバスケットに詰め込まれている。  残念ながらできたてではなく、日にちが経っているせいか千切るのに苦労するほど硬いが、濃厚なシチューに浸して食べるにはちょうどいいかもしれない。  ニールはパンに手を伸ばし、適当に引き千切る。「俺の分も」と便乗してくるエフレムにものぐさなヤツだと舌打ちを返して、千切ったパンをさらに半分にした。 「とても美味いが、野菜の切り方が大きすぎるな。もっと小さいほうが俺の好みだ」と文句を言いながらおかわりするエフレムにパンを渡し、ニールも皿にシチューを注いだ。具が随分と残っている。 「野菜が嫌いってのにも、程があるだろ。生じゃないんだし、残さずちゃんと食べろよ」  ここぞとばかりに強気にでれば、エフレムは低く唸りながら、スプーンで潰した人参を口に運んだ。 「若くないんだからよ、肉ばっかりじゃ腹が出ちまうぞ。運動だって、ろくにしてないんだろ?」  おまけに、酒もたしなむし煙草もふかす。  不健康この上ない生活習慣だろうに、見た目では特に問題がありそうな部分はない。 「油断してると、酷い目にあうぞ」 「お前にゃ、言われたくないね」  にやにや笑う顔に拳をお見舞いしたいところだが、粗野な若造と思われたくはない。むっとしながらも無視を決め込んで、シチューに浸したパンを囓る。 「食ってもさほど太らないってのが、自慢でね。お前だって見ているだろう? 俺の素晴らしい体を」 「馬鹿言え、オレがいつ……」  見たって言うんだよ、と否定しきれない現実に、ニールは頭を抱えた。はっきりと覚えているわけではないが、素肌で一晩明かしているとあっては何も言えない。  じりっと熱くなる頬を悟られまいと顔を背けて、喉元から出かかった罵声をほくほくとしたジャガイモと一緒に飲み込んだ。  ガキ臭い大人に、ガキ臭い対応をしてもつまらない。 「怒るなって、それとも恥ずかしがってんのか?」  煽ってくるエフレムを一瞥し、ふんと鼻を鳴らしてニールはシチューをかきこんだ。鍋底に僅かに残ったシチューも、パンで削り取るようにして平らげる。 「ここまで綺麗に食ったら、分けてくれたご婦人も満足だろうな」 「本当に、美味かった。鍋を返すときに、ちゃんと礼を言わなきゃな」  感謝するよう、ニールは空になった鍋に向かって「ごちそうさま」と手を合わせた。野宿は免れたとして、腹を空かせたまま一晩明かすのは無理ではないが、辛いだろう。  薪ストーブがなかったら震えて過ごすくらいには寒い夜だ、暖かい食べ物は山と積まれた黄金よりも貴重な代物だ。 「で、こっちの鍋にはなにが入っているんだ?」  分厚い鉄製の鍋には、剣戟すらたえられれそうな蓋が乗っていた。てっきりシチューと一緒に火に掛けると思っていたのだが。 「デザートだ。よほど俺が良い男に見えたらしい、とっておきの料理で気を惹こうと躍起になっていたんだろう。あれをもっていけ、これをもっていけとまあ、すごくてなぁ」  自慢なのか、冗談なのか。  ニールは「へぇ」と気のない返事をして、鍋の蓋を開けた。 「これ、林檎か?」  漂ってくる甘酸っぱい匂いに、満腹だった胃が都合良く刺激される。溢れてきた唾液を飲み込むと、エフレムが笑った。 「あんだけ食ったのに、まだ足りないか? ガキの胃袋だなぁ。俺の心配より、自分の腹の心配をした方が良い。若いからって油断してると、取り戻せなくなる」 「うるせぇな、あんたと違ってオレはきちんと動いているからへいきだ。むしろ、食わないと持たないんだよ」  春先のこの季節に、林檎は採れない。  冬に収穫したものを、冷暗所で保管していた林檎だろう。すでに調理済みの焼き林檎は少し暖めるだけで良さそうだ。  蜜の甘い匂いと、ローズマリーの爽やかな香りと林檎の酸味。想像するだけで、胃が空になりそうだ。 「もう少し後でも良いかと思ったが、まあ、いいか。紅茶をいれなおそう」  よっこらしょ、とはさすがに言わないが歳を感じさせるゆっくりとした動作で立ち上がったエフレムが、薪ストーブの上に乗っていたやかんを下げて焼き林檎がぎっちりつまった鍋を置いた。  すぐに、埃っぽい室内に甘い林檎の匂いが立ち上る。 「吸ってもいいか?」と、エフレムが軍服の胸ポケットを探った。少し迷ってから、ニールは頷く。外は寒い。軍服だけではさすがに凍えるだろう。  エフレムと立ち替わるように、ニールは薪ストーブの前に立った。  蕩けるように柔らかな、半透明の飴色になった林檎。考えるだけで、涎が溢れ出てくる。  ずっと戦場を行き来していたニールにとって、甘い食べ物は嗜好品だった。  帝都にもどってきてもいつ招集されるかわからず、しっかりと地に足をつけて休暇を楽しめないニールにとって、欲求をすぐに埋められるものが甘味だった。  焦がさないように注意を払うニールは、微かに漂ってくる煙草の苦い匂いに振り返る。  窓を少し開けて、エフレムがいつもの煙草に火をつけていた。  戦場で嗅ぐ、匂いのキツい粗悪な煙草と違って、エフレムがもつ細身の煙草は芳しい香りを持っていた。  林檎の甘い匂いと混ざって、不思議な気分になる。 「ん、やっぱり気になるか?」  紫煙をほそく吐きだすエフレムに、ニールは違うと首を振った。  嫌な匂いではない。  ただ、嗅ぎ慣れるほど短くない時間を過ごしたのだと思うと、複雑な気持ちになってくる。シャオとイリダル意外、休日を気兼ねなく過ごせた他人はいない。そこに、エフレムがはいってくるなんて、想像もしていなかった。 (いや、べつにエフレムに気を許しているってわけじゃないけどな)  兄に繫がる情報をたてに、散々な目に遭っている。自分から望んで足を踏み入れたので後悔しようもないが、平気でいられるほど鈍感でもない。 (……あんな、こと)  思い出してしまいそうで、ニールはぶんぶん首を振って背中を向けた。  月明かりの強い窓辺に立つエフレムの横顔は、貴族らしく整っていて、癪に障るが綺麗だった。  まばらにはえた無精髭を綺麗に剃るだけで、ぐんと若く見えるだろう。 「なあ、ニール」  煙草で嗄れた声で呼ばれ、ニールはびくっと肩をふるわせた。数日前、体を重ねた夜を思わせるエフレムの声と匂いに動揺しすぎて、返事もできない。  訝しがる気配を無視して、ニールはキッチンから引っ張り出してきたミトンを嵌めた。鍋を掴んで鍋敷き代わりに重ねた布のうえに下ろす。  蓋を開ければ、想像通りの焼き林檎が姿を現した。 「ニール、お前はなにを持っていくつもりだ? 形見分けに来たんだろう?」 「……え?」  ぽかんとした顔で振り返れば、眉をひそめたエフレムと視線が重なった。 「あ、あぁ……そう、だけど」  まだ吸いかけの煙草の火を消し、窓を閉めてから戻ってきたエフレムが「どうした?」と視線で問いかけてくる。 「何を持っていけば良いのか、わからない。全部、みんな大事なものだから」  棚に押し込められたままのガラクタも、貴重な調度品も、この古びた屋敷にあるものすべてがユーリと過ごした日々に繋がるものだ。どうやって選別すべきなのか、むしろニールから問いたいぐらいだった。 「みんな、か。大将は、お前を大事にしていたようだからな」  ぽつりと言って、エフレムは婦人から戴いたという紅茶缶を開けた。 「美味そうな焼き林檎だな。シナモンがあれば、もっと良いんだが」 「シナモン?」  手慣れた仕草で紅茶を煎れるエフレムにうながされるよう、ソファーに座った。 「香辛料だよ。織物と並ぶ、カウニサーリが特産品の香辛料で、木の皮から作られる。大将も好きだったな」 「……へぇ」 「どうした? さっきまで、はしゃいでたのに」  ニールの隣に座り、焼き林檎を突き始めたエフレムをじっと見つめ、ニールは「別に」と言いそうになって口を噤む。 「知らないことばっかりだなって、思って」 「疎外感か?」  否定しても仕方ない。頷くニールに、エフレムは口元を持ち上げてフォークで林檎を刺した。しゃくっと、触感を感じさせる音は心地良い。 「仕方ないさ、全部お前が生まれる前の話だ。ほら、美味そうな林檎だぞ。食べるか?」  林檎を突き付けてくるエフレムに、ニールは渋い顔で返した。 「オレは知りたいんだ、エフレム」  突っぱねようとも思ったが、ニールはエフレムの細い腕を掴んで、甘酸っぱい林檎を囓った。  果肉から溢れ出てくる蜜が、とろりと優しく舌に落ちてくる。 「兄さんのことも、母さんのことも、ユーリおじさんのことも……全部、知りたい」  たっぷりと蜜が染みこんだ林檎は、薪ストーブの揺らめく光に照らされ蠱惑的な色合いになっている。  歯形が残る林檎を、さらに囓る。  じっと見てくる青灰色の視線は、何を思っているだろう。  傷ついているのか、困惑しているのか。見れば躊躇してしまいそうで、ニールはただ林檎を囓った。 「あんたのこともだ、エフレム。あんたはオレを知ってる。オレよりも深く、オレに関わってる。違うとは言わせないぞ」 「あわよくば、あきらめてくれりゃあいいと思ったオレが甘かったんだろうな」  フォークを置いて、手に垂れた蜜を舐めとりながらエフレムは深く息をついた。 「大将によく言われたもんだ、お前は甘いってな」  ぱちぱちと爆ぜる薪ストーブが、沈黙に沈もうとする場を繋ぐ。 「兄さんは行方が分からない、母さんは会えない、ユーリおじさんは死んだ。オレの知らないオレを知っているのは、エフレムだけだ。あんたしか、いないんだよ!」  頭から突っぱねるつもりなら、最初から会おうとしなかったはずだ。  ふざけた男だと思ったが……いまでも、多少なりとも思ってはいるが、無視できない因縁があると、さすがに感じている。 「お前から見て俺がどんな男に映っているかしらんが、弱い男なんだよ、エフレム・エヴァンジェンスは見ていることしかできなかった。語る口すら、持てないほどに弱い。だから、教えるしかない」  資料庫に行け。  突っぱねられたようにも感じたが、今は懇願のようにも思えた。  エフレムは誤魔化すように笑って、ポケットを探る。また、煙草か? 「体に悪い」と言おうとして、取り出された銀色の小さなボトルに肩をすくめる。 「しょうがないオッサンだ」 「しょうがないオッサンだよ」  香りのいいブランデーが、琥珀色の紅茶に沈んでいった。  

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