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代償の痛み 15

 意を決して、ニールはベッドから降りた。 体の奥に残る痛みは少しもましになっていないが、このまま寝ていたところで、治るものでもない。  出て行ったエフレムが、いつ戻ってくるかも分からない。ぐだぐだ過ごしたせいで鉢合わせなんてしたら、気まずいにもほどがある。 「……なにやってんだかな!」  怒鳴る相手は、自分自身だ。  思っていたよりずっと、男に抱かれた衝撃が強かった。  生娘でもあるまいにいつまでも引きずっている自分が悔しくて、イライラと頭を掻きむしる。  全裸の自分を見下ろすと、うっすらと赤い口づけの痕跡が残っているのに気付いて泣きたくなった。  とはいえ、泣くわけにもいかない。ニールは気持ちを切り替えようと軽く頬を叩いて、きちんと折りたたまれておかれている下着を取り上げた。  複雑な気持ちで身につけながら、コート掛けに吊されている軍服に袖を通す。  滑らかな生地の感触を、今ほど心地よいとおもった時はないかもしれない。  昨晩の情事の痕跡が唯一残っているベッドをあえて視界に入れないようにして、ニールは水の入ったボウルを取り上げた。 「これぐらいは、片付けてやってもいいか」  湿った寝床をそのままにしていくのは心苦しいが、洗濯する義理はないし、ばかばかしすぎる。  寝込みを襲って、好きに陵辱したのはエフレムのほうだ。被害者である自分が片付けをするなんて、笑い話にもならない。 (今夜は、ソファで寝ればいいさ)  チッ、と舌打ちをして、踵を返したニールは、チェストの上に置かれた写真に視線を止めた。  若い、女性がほほえんでいる写真だ。  お世辞にも美人とはいえないが、穏やかな笑顔を見ていると、ふつふつと怒りにたぎっていた心が落ち着いてゆくようなきがした。  ニールはボウルを脇に抱え、写真立てを手に取る。  明るい、ブルネットの長い髪。くるくると跳ねる毛先が、女性の笑顔に幼さを与えている。 「あいつの、妹か?」  いや、違う。  容姿ではなく、内面が素直に現れている素朴さが魅力的な女性が、エフレムの親族であるわけがない。  では、誰なのか。  寝室においてあるのだから、特別なひとであるのは間違いない。  ニールは首を傾げ、写真立てを元に戻して、寝室を出た。  迷いながらもたどり着いたダイニングには、エフレムが言ったとおりに簡単な朝食が置かれてあった。  昨晩食べたふわふわのパンと、果実たっぷりのジャム。  ティーコゼーがかぶせてあったティーポットは、まだ暖かい。側に並べてあった缶から茶葉を取り出し、ストレーナー越しにお湯を注ぐ。 「洒落てんのが、腹立つな」  部屋に漂う紅茶の香りは、違いがわからない素人にでもわかるほど芳醇だ。  注いだ紅茶の美味さにほっと息をつきながら、ニールはパンにジャムを乗せる。  もしゃもしゃとかじりながら、一緒に置かれてあった合い鍵と……一枚のメモ用紙を見やる。 「そう簡単に、許してやるか」  合い鍵をポケットに突っ込んで、二つ折りのメモを開いた。  謝罪の言葉なんてかかれていたら、笑いながら拳で殴ってやる。  半ば期待しながら、ニールはパンを紅茶で胃に流した。 『左手より二番目の鍵、老人は昼食後に居眠りをする。機をねらって拝借されたし』 「相変わらず、格好付けやがって。なにが言いたいんだよ」  破って置いていこうか。  苛つきながらも、最後まで目を通したニールは眉間に皺を寄せた。 『エフレム・エヴァンジェンスは、そこにある』    ◇◆◇◆  清々しい空気に癒されながら、エフレムは馴染みのカフェ店に入った。  夜遅くまで酒飲みたちが騒いでいたのだろうか、テラス席に座ると、なんとなくアルコールの匂いが残っているような気がした。 「昨晩は、いかがでした? お機嫌が悪そうな顔になっていますけど」  珈琲の香りとともに、やってきたのはひょろりと背の高い男だった。  これといった特徴はないのに、何故か引っかかる。  笑っているように見える細い目を見上げ、エフレムは咥えていたタバコを灰皿に置いた。 「お前が、セヴィー・ハーグマンだな? 名前ぐらいは知っている」 「本当に、名前ぐらいしか僕のこと知らないんですかねぇ? なんなら、自己紹介してもいいですよ」  エフレムが注文したブラックと、甘い匂いのするカフェオレを乗せたトレイを持ったセヴィーが、向かいの席に座った。 「必要ない」そっけなく答え、エフレムは目の前に置かれた珈琲を手に取った。 セヴィー・ハーグマン。  諜報部の人間だが、特筆するのならば、下半身にだらしない皇帝の数多い落とし子のひとりだ。  時折、長い髪からちらつく緑色の瞳には、皇族の証である金糸が混じっているのが見て取れた。 (ニールの腹違いの兄ってやつか。まあ、ハーグマンのいわくつきの出生からして、知らないだろうがな)  セヴィーの母親は、道端に立つ場末の娼婦だったはずだ。気まぐれに抱かれ、できてしまった皇帝の子だが、認知はされていない。 (皇帝のだらしのなさは誰もが知るところだが、娼婦とのあいだに子をつくったなどと、公には認められないのは当然か)  湯気の立つカフェオレを放置したまま、セヴィーは「知らないわけがないですものねぇ」とニヤついた。 「で、どっちがどっちだったんです? 大佐が抱いたんですか、それとも抱かれたんですか?」 「首をつっこんできたのは、なんのためだ?」  煙草を再び咥え、煙を吸い込む。  見た目と反して煙草が苦手なのか、セヴィーの表情が僅かに崩れた。 「特別な理由はないですよ、僕だって暇人じゃあないですからね? だいたい、恋文を覗き見したくらいで怒らないでほしいな。その年で、初なわけでもないでしょ?」  煙を吹きかけみるが、今度は完璧に無視をして、セヴィーは「なんてことはないんですよ」とため息をついた。 「嫌がらせです。せっかく捕らえた捕虜を、呆気なく殺してくれたせいで、陛下のご機嫌が斜めになっちゃったんですよ」 「いよいよ、ご趣味が悪くなってきたみたいだな。我らが、皇帝陛下は」  歴戦の強者だった皇帝も、年をとって前線にたてなくなった。国政は安定しているし、占領地は各々に任せるよりほかにない。となれば、やれることは自然と限られてくる。 「女あそびにも、限界がきはじめてるみたいですね」  やれやれと、セヴィーは自虐的に笑う。エフレムのほうは、笑えもしなかったが。 「人の手紙を盗み見するのも、誉められた趣味じゃねぇだろ」 「これっきりですよ。言ったでしょ、僕、忙しいんで。暴れん坊の皇帝陛下の尻ぬぐいをしに、しばらく帝都を離れなくちゃいけませんから」  カフェオレには手をつけないまま、立ち上がったヴィーは、エフレムの隣に立った。 「あっちこっちに、恨みを買いまくってきたツケがきてるみたいですよ?」  そっと耳打ちされる言葉に、エフレムは煙草の吸い口を噛んだ。  きな臭い風が、帝都に吹き込もうとしている。  

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