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エフレム・エヴァンジェンス 2

 日が沈み、軒先のランプに灯がいれられる。  表通りはきちんと整備され、身なりも良い人々が笑顔で行き交っているが、一歩路地を入れば別世界になる。  小綺麗な表の顔こそが仮初めであるように思えるほど、裏路地に潜む闇は深い。  地面は乾いているはずなのに、どこか淀んだ臭いを感じてニールは唾を吐いた。  表通りとはちがって灯りの数は少なく、月が出ていなければ道に迷いそうなほど薄暗い。  複雑に入り組んだ路地の奥へ進むにつれ、華やかな帝都の裏側が見えてくるようだ。  ニールは昨晩と違い、普段着よりもよほど着慣れた軍服を身につけ、愛用している異国の剣……刀と呼ばれる得物を携え、指定された店がある区画へ向かっていた。 「ったく、トンデモねぇ場所に呼びつけてくれるもんだ」  錆びたコップを足元に置いた乞食の物騒な視線に、腰に下げた刀をちらつかてやる。  闇夜でも分かるほどギラギラとした目が不満そうに細められ、悔しげな舌打ちが聞こえてきた。相手が軍人とわかっていても、追いはぎを企んでいるような乞食の素振りは、いっそたくましくも思える。  「なるほどな、イリダルが渋るのも分かる。軍服を着てなかったら、無駄に絡まれて面倒だったろうな」  会合の場所として指定されている店は、スラム街と呼ばれる区画にあるらしい。情報屋から渡された紙をポケットから取り出して広げる。  帝都で生まれたニールだが、独り立ちをしてすぐに軍属となり、様々な部族との小競り合いを続けている帝国の先兵として、あちこちを転々とする人生を送っていた。  終わらない戦争の合間に帝都へ戻ってきても、宿舎と軍施設を往復するだけで、外に繰り出すような暇は滅多になかった。  僻地で育ったイリダルのほうがよほど、帝都の事情に詳しいのだから複雑だ。  地図は正確に記されているが、土地勘の全くないニールでは見当すらつかなかった。  仕方なく、直属の部下であるイリダルに場所を尋ねたのだが、年若い部下は地図を見て開口一番、「行くつもりですか?」と渋い顔をしてみせた。  賛同できないと、紙を破り捨てそうな勢いにはさすがのニールも驚いた。  物静かで、表情をあまり見せない男が久しぶりに見せた感情的な動作は、それだけ向かう場所が危ない場所であるとに教えてくれていた。だからといって、引くわけにも行かなかったのだが。 「五つも下のくせに、言うことは母親みたいなやつだ」  心配だから同行すると言って聞かないイリダルを納得させるのには、骨がいった。個人的な問題に、気を許しているとはいえ部下を巻き込みたくはなかったし、生娘でもないのに、夜道を一人で歩けないと思われているのは癪だった。 「戦地にくらべりゃ、どうってことねぇ。飢えた乞食はあっちこっちにいるが、所詮はただの人間だ。コイツがありゃ、どうにかなる」  ニールは刀へ手を伸ばし、余計な虫が寄ってこないよう気を張った。  どこの国にも街にも、表とついになるように深く淀む裏側の顔が存在しているものだ。  帝都は広大だからこそ、人口も多い。  掃きだめのような闇の色が、他よりも濃厚なのは当然だろう。  驚くようなものではない。  スラムを遊んでいるのは、乞食や犯罪者ばかりではない。  風雨にさらされ、ボロボロになった酒場の軒先には、ニールと同じ軍服に身を包んだ男がちらほらと目に付く。  見分けがつかないだけで、様々な身分の人間が、無礼講と称して好き勝手やっているのだろう。表では重要な体面も、スラムでは取り繕う必要などないのだ。  スラムでは、堂々と女を好きに買える。  きらびやかな格好をした女や、あきらかに素人感丸出しにしたおぼこな女が並んで路地に立っている姿を彼方此方でみかけていた。中には男娼の姿もある。  気分を高揚させる薬も、公然と取引されているだろう。人殺しだって、珍しくないのかもしれない。 「趣味の悪い野郎だってのは、確かだな。エフレム・エヴァンジェンス、帝国の〝ドブ浚い〟か。よっぼどクサい場所が好きみてぇだ」  イリダルが教えてくれた目印を見つけ、さらに路地の奥へと進む。指定された名前のない酒場は、もうすぐだ。 (エフレム・エヴァンジェンスの階級は……たしか、大佐だったか)  常に前線に送り込まれているニールでさえ、名前と仇名くらいは聞いたことのある人物だ。  強大な国力を最大限行使して、敵対勢力をなぎ払う華々しい帝国にあって、裏の仕事を粛々とこなす変人。  諜報活動から、捕虜の拷問。ありとあらゆる裏の仕事を好んで引き受けている男だと、ニールは噂で聞いている。 「さすがに、〝ドブ浚い〟野郎に会うとはイリダルに言えなかったな」  スラムに足を踏み入れるだけでも、渋ったイリダルだ。待ち合わせの人物がエフレムだと知れたら、力尽くでも止められていたかもしれない。  もう一度地図を見て、ニールは紙をできるだけ小さく千切って乾いた地面に投げ捨てた。  目の前に、一件の酒場が……いや、大きさからして宿泊施設も兼ねているだろう建物がある。  散らばった紙くずを踏みつけ、酒場に入ったニールは、ホールの異様な雰囲気に足を止めた。  場違い感を丸出しにした格好のニールに、客の視線が集まる。が、好奇の視線は一瞬だった。  仕事をしにきたのではなく、物好きな不良軍人と判断されたか。一瞬でニールへの興味はそれ、互いのパートナーとの雑談に戻っていった。 (なんだ、ここは?)  入り口で立ちすくんだまま、ニールは酒気の漂う店内をぐるっと見回した。  あまり広くない空間で、客たちは最低でも二人以上の組となって、机を囲んでいた。  男と女、女と女、男と男。  異性、同性、年齢、果ては身分も関係なく酒を酌み交わしている姿は、異様な光景だ。  ニールの感じた異様さは、客層だけではない。店内に充満する空気、いわゆる雰囲気が、どうしてか、娼館で感じるなまめかしさとにているように感じていた。 「お客様、お待ち合わせでございますか?」  動かないニールを訝しんでか、黒服の店員が声を掛けてきた。「そうだ」と答えたニールの視線の端で、腕を親しげに絡めた男が二人、連れたってゆっくりと階段を上がってゆくのがみえた。 (なるほど、イリダルの心配はこれか)  物騒なスラムを一人で歩くのではなく、逢い引きの場として使われているだろう酒場に行くのを心配していたのだろう。 「あいつ、保護者気取りか。オレが誰とよろしくやってようが、関係ないだろうが」  何のことかと首を傾げる店員に、ニールは「問題ない」と手を振って案内を断った。  たしかに待ち合わせはしているが、夜にこの酒場にくるようにというだけで、具体的な時間までは要求になかった。 (向こうがこっちを見つけるまで、待てばいい)  店内は良い具合に混み合っているが、幸いにも空席はいくつかあるようだった。  意を決してホールへと踏み出したニールは、強い視線を頭上から感じてすぐに足を止めた。 「あんたが、エヴァンジェンス大佐か」  二人組の男が昇っていった先、手摺に寄りかかって店内を見下ろしている男の姿があった。

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