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エフレム・エヴァンジェンス 3
上がってこいと手招きしてくるエフレムに、大人しく従うのは主導権を取られるようで癪だが、ごねていたところでどうしようもない。
ニールはくるりと踵を返し、年季の入った階段を上った。
「エヴァンジェンス大佐、だな?」
「ここは軍じゃない、大佐はつけるな。ついでに家名も、身分を探られかねないからやめておけ。ふざけた店の中で堅苦しいやりとりは、悪目立ちするだけで、ひとつもいいこたぁないんだよ、坊主」
エフレムは影の差した灰色の目で、ニールを頭から爪先まで見やり……わざとらしく肩をすくめた。
「軍服で来るとは、物好きな坊主だな。軍服で女とヤる趣味でもあるのか? 若いくせに、変わった趣味をしているんだなぁ」
「うるせえよ。だいたい、坊主ってのはなんだ、オレは――」
声を荒げるニールを制するよう、エフレムは一歩下がって握りこぶしを胸に手を当てた。
軍式の敬礼だ。
「ニール・ティアニー少佐。栄えある我が大帝国の英雄、またの名を赤い戦鬼。この俺が、知らないわけがないだろう?」
くたびれた無精髭で笑うエフレムの皮膚は、僅かに上気しているように見える。
「クソ酔っ払いが」と唾棄するが、エフレムは特に気分を害した様子もなく、人を食ったような笑みを崩さない。
「あぁ、たしかにクソ酔っ払いだ。が、ここは酒場だ。酔っていて何が悪い?」
どうにも、得体の知れない男だ。
戦場で何度も助けられた直感が、ニールの苛立ちを急速に冷ましていく。
息子といってもおかしくない年齢差の、おまけに階級が下である若造に生意気な口を利かれていて、激高しないのはひどく不気味だ。
寛容な性格をしている、と言うわけでもないだろう。
〝ドブ浚い〟と揶揄されてはいるが、エヴァンジェンス家は貴族に縁のある一族の名だ。
見た目こそくたびれた酔っ払いでも、エフレム自身は、表通りを我が物顔で闊歩している富裕層側の人間のはず。
ただの落ちこぼれ、馬鹿にされていると分からないほどのグズであるなら問題ないが、そんな無能が大佐でいられるほど軍も甘くはない。
むしろ、家名で得られるだろうコネをつかうなら、左官という階級は中途半端であるようにも思える。仕事の内容だって、身分とは到底釣り合いそうにない汚れ役だ。
何より、にやにやと笑いながらもニールを見定めるような視線の鋭さに、警戒心が刺激されていた。
思わず刀の柄に手を伸ばしそうになり、ニールは硬くこぶしを握ってエフレムとの距離を一歩だけ縮めた。
「ご託はいらねぇんだよ。シケた店にわざわざ出向いてる理由、言わせる気か?」
「ずいぶんと、せっかちだな。……誰に、似たんだか」
酒臭い息を吐いて、エフレムは奥の部屋を指差した。
「下は煩くて話にならないからな、中でゆっくり取引をしようじゃないか」
照明の少ない廊下は、ひどく薄暗い。
下からわき上がってくるような声にかき消されて気づけなかったが、薄そうなドアから漏れ聞こえてくる官能的な声に、ニールはぎりぎりと奥歯を噛んだ。
「とんでもねぇ場所を、選んでくれたもんだ」
個室で何が行われているのか、邪推しなくとも想像は付く。
仲むつまじく階段を上っていった男たちの顔が脳裏に浮かび、ニールは軽く頭を振ってエフレムを睨み付けた。
「止めるってんなら、今のうちだ。その言いぐさからすると、ここがどういった店なのか分からないできたんだろ? 情けだ、猶予くらいくれてやっていい。いまならまだ、引き返せるだろう」
エフレムは手摺に寄りかかり、上着の内ポケットから細身の紙巻き煙草をとりだした。
「どうせ、道楽でやってんだ。俺はどっちだって構わない」
茶色い紙で巻かれた煙草を咥え、マッチを擦って火を点す。エフレムはすうっと音を立てて煙を吸い込み、深い吐息に紫煙を混ぜてはきだした。
酒気に混じって、漂ってくる甘い煙の臭いに、ニールは眉間に皺を寄せた。
「あんたは、知っているのか? 八年前、軍から逃亡した男を」
余裕綽々といった態度に、殴りかかりたい衝動を抑えつけ、ニールは紫煙をくゆらせるエフレムを睨んだ。
少しの嘘も見逃さないようにと、力の入った視線を受けたエフレムは、口元こそ笑みの形になっているが、軍人らしい目つきでニールの緋眼を真っ向から受け止めている。
得体のしれない相手だが、姑息な人間ではないようだ。
だからといって信用に足る相手とはかぎらないが、すくなくとも、賭に出ても良い相手だろう。
「八年前、失踪した緋色の目の男、アルファルドの行方。満足できるかどうかは知らんが、情報はもっている」
核心めいたエフレムの態度は、甘言と疑うにはあまりにも堂々としていた。
……嘘ではない。
誰にも告げていない、アルファルドの名を出してきたとなれば、探している人物がどれほど危うい立場にあるかも知っているはず。
ニールはぐっと、掌に爪が刺さるほどにこぶしを握りしめた。
どうする?
甘い紫煙が流れていく先に、ひっそりと存在する緑色の扉。
はっきりと名言してはいないが、ただで情報を得られるとは思ってはいない。
周囲から漏れ聞こえてくる感極まった嬌声が、ニールに選択を促しているようで煩わしかった。
(物好きなのは、オレじゃねぇよ)
ニールは、視界にかかる銀髪を掻き上げた。ざらついた古傷の感触に、苦笑が漏れる。
「報酬は、金か? それとも、身分に適った地位か?」
「金も地位も、欲しけりゃ自分でかっさらえる。俺が望むのは……もっと、面白いもんだ」
エフレムはポケットから携帯灰皿を取り出し、まだ、半分も残っている煙草を惜しげもなく放り込んだ。
「どうするかは、テメェで決めるんだな」
肺に残った紫煙を吐き出し、奥の部屋へと向かって歩き出したエフレムの背中に、ニールは「クソったれ」と舌打ちをした。
選択肢など、最初から存在していない。
何が待ち受けていようと、進むしかなかった。
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