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エフレム・エヴァンジェンス 4
扉の閉まる音が、重たく響いた。
古びた店だが、利用する客層は表通りの宿場よりも高級であるのかもしれない。
狭い部屋を照らす灯りは、ランプでなく電灯だった。各部屋に電気を敷いているとすると、相当実入りの良い営業をしているのだろう。
「こういった店に入るのは、初めてか?」
「娼館ぐらいだったら、行く」
からかうよう声に出して笑うエフレムは、ベッドに腰掛けたまま、サイドテーブルに置かれた酒瓶へ手を伸ばした。
磨かれたグラスに氷を放り込み、琥珀色の液体を注ぐ。「いるか?」とグラスを傾けられたが、ニールは首を振って断った。
「遊びにきたわけじゃねぇんだよ。さっさと、取引を始めようぜ」
「俺は、遊びに来たんだがなぁ。今時の若者がせっかちなのか、テメェがとくにせっかちなのか……どっちだろうな」
ころころと氷を鳴らして肩をすくめたエフレムは、舌を湿らす程度に酒を含んでグラスをサイドテーブルに戻し、上着のボタンを外して内ポケットへと右手を差し込んだ。
取り出したのは、一枚の紙。
裏返しになっているが、大きさと質感からして写真だろう。
ニールは押さえきれない期待に、息が上がり始めているのを感じていた。
動揺を悟られまいと、吐息を緩める。なんでもない表情を、上手く取り繕えているだろうか。
(……アル兄。やっと、オレは辿り着けるのか?)
蝶のように、エフレムの手の中でひらひらと揺れる写真。
無意識に動きを目で追っている自分に気付いて、ニールは軽く頭を振った。
「見せてもらえるんだろうな?」声を低くして、腰に下げている刀の柄に手を添える。
「物騒なもんは……そうさな、俺に預けてもらおうか? 素手で英雄さまに勝てるとも思えないが、刃物で切られるよりはまだ、生存率も高いだろう」
「殴り殺されたいか? それとも、絞め殺されたいか? 一瞬で終わる刃物のほうがマシかもしれねぇぞ?」
ニールは鞘を固定している金具を外し、エフレムへと放り投げた。
「一瞬で死ぬなんて、つまらない選択はしたくないね。どのみち死ぬんなら、テメェの小綺麗な顔に唾を引っかける猶予くらいは貰いたいもんだ」
刀をベッドの端へ投げ、ゆっくりと立ち上がったエフレムは、裏返しにしたままの写真を差し出した。
反射的に上げた手を止め、ニールはエフレムの顔を窺う。
「情報の……取引の条件は?」
「見るのか、見ないのか。テメェはどっちを選ぶ?」
ニールの顔をのぞき込むよう、上目づかいになっているエフレムの灰色の目が、試すように鋭く細められた。
「――っるせぇ!」
ニールは唾を飛ばし、差し出された写真をもぎ取った。
やれやれと肩をすくめるエフレムに中指を立て、写真をひっくり返せば、鮮やかすぎる雲一つない空の青が視界に飛び込んできた。
何処かの、戦地で取られたであろう写真。
家屋の残骸が、青空の中で不気味な存在感をもって積み重なっている。ニールも、よく知っている光景だった。
異国のにおいを感じさせる色合いの中にちらつく赤は……人血だろう。
荒廃した写真を、じっと見つめる。
「アルファルド……間違い、ない」
瓦礫の間、僅かに映り込んでいる銀髪の青年。
目の色までは分からなかったが、血のつながりが、確かに父違いの兄であると教えてくれている。
ニールは写真に写るアルファルドを、人差し指でそっとなぞった。
幼少期の面影を残しながらも、ずいぶんと雰囲気が変わった兄の姿に、うれしさと同じくらいの戸惑いも覚えている。八年の月日は、思った以上に長かったようだ。
記憶の中にある、つねに優しく微笑んでいてくれていた姿が霞むほど、写真に映る兄の姿は、鬼気迫る何かを感じさせる。
「で、前金くらいの情報にはなったか?」
「前金? あっ……テメェ、返せよ!」
なんの話かと顔を上げたニールは、不意をつかれ写真を奪われる。
「返せも何も、この写真は国家機密だ。チラ見できただけでも、ありがたいと思ってもらわなけりゃな」
エフレムは、写真を再びポケットに突っ込んだ。
「おい、おっさん。写真は何処で、いつ撮った?」
「この先は、取引次第だよ。坊主、タダで何もかもが手に入ると思うほど、お子様じゃないよな?」
廊下で煙らせていた煙草を取り出したエフレムは、激高するニールを無視するように煙草を咥え、マッチを擦った。
「……なんで、写真を見せた」
燐の燃える臭いが喉に絡んでくるようで、ニールは煤が染みこんで黒ずんだ床に唾を吐いた。
「お前が利用した情報屋は、そこそこ付き合いがあった奴でな。世話になった礼がわりに、面子を保ってやったにすぎない」
「尻ぬぐいか? 見かけによらず、お人好しなんだな」
エフレムは「まさか」と笑って、甘い煙をニールに吹きかけた。
「餞別ってやつだよ。好奇心に負けた時点で、奴は情報屋として終わった。が、見逃してやれるほど俺もお人好しじゃあない。のぞき込んだ闇は、深いと知っていただろうに覗き込んじまった奴が馬鹿だったんだ」
ぎし、と床が鳴る。
明滅する煙草の火が映り込む灰色の目が、ニールをじっと見据えている。
「人さえ簡単に殺しちまう闇を、のぞき込む覚悟はあるか? ニール」
「対価はなんだ? 勿体ぶらずに、言いやがれよ」
煙る煙草をつまみ、床へたたきつける。
「やれやれ、その傲慢さは父親に似たか?」
床でなおも煙を立ち上らせる煙草を拾い、空のグラスに投げ込んだエフレムは、振り返ったと同時、一気にニールへと詰め寄った。
「――っ、てめぇなにすんだよ!」
完全に、油断していた。
ニールは受け身をとるまもなく突き飛ばされ、背中を壁に強打した。衝撃に縮んだ肺が酸素をもとめ、咳き込みながら喘ぐ。
趣味の悪い酔っ払いと決めつけていたが、相手は同じ軍人だ。格闘能力はニールに分があろうとも、一般人ではない。
「金や名誉なんてくだらないもので、エフレム・エヴァンジェンスは飼えない。もっと美味い餌じゃなけりゃ、満足できねぇんだよ」
呼気を感じる、荒々しい声。
容赦なく髪を掴まれ、持ち上げられる。
「何が望みなんだよ」
問うニールに、エフレムは笑った。
薄暗い闇に溶けそうなほど虚ろな灰色の目をすっと細め、軍服の金釦がひとつひとつ、ニールに宣言するようにゆっくりと外されてゆく。
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