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代償の痛み 4

口元を汚す唾液を黒革の手袋で拭い、ニールは兵舎を進んで行く。  戦況が沈静化しているせいか、すれ違う仲間たちの顔に緊張感はなく、日々の業務に終われる忙しさだけがあった。 「よう、フェレ大佐は何処にいるかわかるか?」  見知った顔が通りかかり、ニールは片手を上げて赤毛の青年を呼び止めた。先の戦いで、同じ中隊にいたヨシフだ。 「ティアニー中隊長、なんだかお久しぶりな気分ですね」 「隊は解散してるんだから、もう隊長じゃねぇよ。で、怪我の具合は……よさそうだな。もう、仕事してるのか」  頭に白い包帯を巻き、片足を少し引きずりながらやってきたヨシフは「おかげさまで」と敬礼して見せた。戦場で負った怪我を治療するため、ニールと共に帰還した兵士だ。 「フェレ大佐なら、執務室ではないかと。叙勲式について、ですか?」 「何年ぶりかの休暇だが、ゆっくりと休んでもいられなくてな。溜まっていた書類やら何やらで、あっちこっちをいったりきたりだ。お前も、仕事熱心なのもいいが怪我はしっかり治せよ」  ヨシフの肩を軽く叩いて、ニールは階段を上る。途中すれ違う上官に敬礼しつつ、ヴァレリー・フェレの執務室を目指す。 (面倒な相手が、上官になったもんだ)  戦地で部隊が解体され、帝国に戻ったニールはヴァレリーの元に再配属された。休暇中とあって、実際に顔を合わせたのは数回程度だが、印象は最悪だった。  エフレムにも負けず劣らず良い噂の聞かないヴァレリーという男は、傭兵上がりの軍人だ。いわゆる、叩き上げだ。  周辺諸国との争いが絶えない物騒な情勢で、ヴァレリーは誰よりも高い屍の山を築き上げ、大佐の階級をもぎ取った。  若干三十五歳、異例中の異例だろう。  圧倒的な実力はもとより。邪魔者の存在を徹底的に許さない攻撃的な性格は戦場で大きな力となる半面、平時では上層部の頭痛の種になっている。  配属の挨拶をしただけのニールでも、目に映るすべてのものを咀嚼するようなヴァレリーの視線には不快感しか覚えなかった。  凶暴な獣を恐る恐る飼うように兵舎の奥にあるヴァレリーの執務室は、孤島の監獄のようにひっそりとしている。  用事がなければ、近づこうとする者もいないのだろう。人の気配がまるでなかった。  分厚い扉の前に立ち、ニールは息を吐いて力を抜いてノックをした。 「ニール・ティアニー少佐です。叙勲式の件で参りました」  返事がない。  留守なのだろうか。  もう一度ノックをしようと右手を持ち上げたニールは、聞こえてくる物音に息をのむ。 「……ぅ、あ」  かすかな衣擦れの音に混じって、苦しげな呼吸が聞こえる。いや、分厚い扉の向こうから聞こえてくるのは喘ぎ声だった。  女ではなく、男の。 「あぁ、ティアニー少佐か? もうすぐ終わる、扉の前で待っていろ。混ざりたいってんなら、入ってきても良いがな」 「っ、ここで待たせてもらいます」  ニールとヴァレリーのやりとりに、困惑した吐息が混じる。が、停滞は一瞬だった。  低い笑い声がしたかと思うと喘ぎ声はとたんに嬌声と変わり、軋む音が一定の間隔を刻み出す。  扉の向こうで何が行われているのか、推測しなくとも分かる。……わかるのが、とてつもなく不快だった。 「……っ、は。まあまあってとこだなァ」  少し間を置いて、立ち上がるヴァレリー。近づいてくる靴音に、ニールは表情を固めて一歩下がった。 「待たせたな」ドアが開き、現れたのはニールよりも一回り、二回りほどある大柄の男だった。  外套を羽織るように軍服を肩に掛けたヴァレリーに、ニールは形ばかりの敬礼をした。  午後の陽差しが差し込む執務室に視線を向ければ、全裸のまま、床にへたり込んだ見知らぬ青年がいた。  気まずそうにニールから視線をそらす青年の傍らには、脱ぎ捨てられた軍服が落ちていた。  白昼堂々行われていた蜜事はあえて気に留めず、ニールはあくまで仕事と割り切って背筋を正して向き合う。  大人しく従うようで気にくわないが、さっさと用事を済ませて早くこの場から離れたかった。 「明日に行われる叙勲式の詳細を受け取りに参りました」  素肌をさらしたまま、床で震える青年が自分に重なるようで、どうしようもない苛立ちを覚える。目に映る光景が無様にみえるから余計だ。ニールは奥歯を噛みしめる。  ヴァレリーはニールの胸中を知ってか知らずか、楽しげに金色の瞳を光らせていた。  黒い軍服に、艶のない漆黒の頭髪。ギラギラとした目だけが色を持つ容姿は、帝国の人間には珍しい特徴だ。 「相変わらず、愛想のない小僧だな。上官に対する態度としちゃ、最悪だ」 「フェレ大佐に媚びる必要を感じませんからね」 「そりゃあ、そうだ。ティアニー少佐は、帝国の英雄様だ。顔だけが取り柄のグズと違って、確かな実力がある。力があれば、コネなんて必要ない。俺が一番、よく知ってる。なにせ、体現者だからな」  くるりと踵を返したヴァレリーは、蹲って震える青年を蹴飛ばしながら執務机に戻った。所狭しと散らばる書類を書き分け、封書を引っ張り出してくる。 「これが、叙勲式の詳細だ。当日は、皇帝陛下もお見えになる。しっかりとやるんだな」 「陛下、が?」  ぞっと、胃が冷える。  記憶の中に甦ってくる、実父のおぼろげな姿に動揺を見せまいと強ばるニールは、押しつけられた封書を取り落としそうになった。慌てて両手で掴めば、ほれみろとばかりに笑われる。 「なにが、おかし――」 「んぁ? お前」  ぐっと、近づいてくるヴァレリー。  迫ってくる金色の両眼は抜き身の剣のように、鋭い。 「らしくねぇ、匂いがするなァ」  あまりにも唐突すぎる行動に唖然としているニールの襟を掴んだヴァレリーは、強引に開いた胸元へと頭を潜り込ませた。 「なっ! なにしやがる!」  ぞっと、背中を這い上がる悪寒に、ニールは封書を放り出して、腰に下げていた刀に手を伸ばしていた。 「なにって、においを嗅いだだけだぜ? それと、上官相手に刀は抜くなよ。折角の休暇を、ずっと独房で過ごしたくはないだろう?」  勢いで抜きかけた刀は、ヴァレリーの手で元に戻される。ニールはヴァレリーを突き飛ばし、乱れた軍服の襟を引き寄せた。 「……冗談は、やめてくれませんかね」  眉間に皺を寄せて睨み付ければ、おどけたようにヴァレリーは肩をすくめ、鼻がしらを指先で撫でながら笑った。 「休暇中だからって、ずいぶんと遊んでいるようだな。洒落た香水のこの匂い、テメェのもんじゃねぇだろ? なあ、誰と盛っていたんだよ」  赤い舌で指先を舐める様にニールはぎりぎりと奥歯を噛みしめ、床に落ちた封書を拾い上げる。 「気のせいでは?」動きを追ってくる視線に舌打ちで反し、ニールはヴァレリーをふりはらうよう勢いよく踵を返した。足早に、階段へと向かって歩く。  周囲に人がいなかったのは、幸か不幸か。  下の階に続く階段の手すりを掴んだまま立ち止まったニールは、エフレムが触れた胸元を掴み、顔を埋めた。 「クソったれ」  気づけなかった残り香に、ニールは硬く握り閉めた拳を手摺に振り下ろした。

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