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代償の痛み 6

滅多に鳴る機会のない呼び出しベルが、屋敷に響いた。  丁度、真新しい赤のクロスを敷いたテーブルにグラスを置いた時だった。見繕ったかのようなタイミングに、エフレムは「さすがだな」と独りごちてエプロンを脱いだ。  日が沈めば底冷えする帝都の夜気を押しのけるよう、薪ストーブで暖房を効かせている室内は薄着で充分だったが、ドアの向こうは震えるほどに寒い。  外はもっと寒いだろう。  客人を待たせてはいけないと、ハンガーポールに掛けてあったガウンを肩に掛け、エフレムは玄関へと小走りに向かった。 「さすがだな、時間ぴったりだ」  古い作りの屋敷のため、大きく重いドアをゆっくりと開けた先に立っていたのは、ニコル・アーベルだった。 「本当はね、もう少し早めに来るはずだったんだけど寄り道をしちゃって。おじさまの手料理を頂くのも大好きだけど、料理を作っている背中を見ているのも好きだから。ざんねんだけれど、またの機会ね」  闇に溶けそうな黒のふわふわとしたコートを引き寄せ、ニコルは息を白く煙らせながら微笑む。  色素の薄い長い髪を丁寧に巻いて頭の上でまとめ、ふっくらとした唇と揃いの赤い色の花をモチーフにしたバレッタで飾っている姿は、これから舞踏会に行く貴婦人にしかみえない。 「お望みとあらば、いつでも料理ぐらいご馳走するがね」  ニコルの露出の多い服装はいつもながらだが、より女らしさを強調するような真紅のドレスに、エフレムは口の端を緩めて「似合っているよ」と返した。  少し身を引いて、中に入るようニコルを促す。  擦れ違いざま、夜気に混じって漂う覚えのある香水の匂いに、エフレムは小さく肩をすくめる。 「なんだ、まだ同じ香水を使っているのか。飽きないな」 「愛着があるのよ。良い匂いだし、問題無いでしょう? 気付いたら、同じ物を仕入れちゃってるの」  背中を向けるニコルに手を伸ばし、手触りの良いコートを脱がす。  むき出しの肩や、色気を醸し出すうなじから漂ってくる匂いは、ずっと昔にエフレムが誕生日の贈り物として渡した香水と同じものだ。 「玄関にまで、良い匂いが漂ってる。さっそく、お腹が空いてきちゃったわ」 「久しぶりだからかな、ついつい気合がはいっちまったよ」  コートを片手に掛け、ニコルの肩を抱いたエフレムは、温めておいたダイニングへとエスコートする。 ドアを開けてすぐ、広いテーブルいっぱいに並べられたご馳走に歓声を上げたニコルを、エフレムはしてやったりと微笑んだ。 「これから、パーティが始まりそう。ねえ、おじさま。キャンドルは? もちろん、灯すでしょう?」 「言うと思ったからな、ちゃんと用意はしてある」  年甲斐もなくはしゃいでは、せっかくの色っぽい衣装も台無しだろう。  とはいえ、お高くとまった食事よりも賑やかなほうがエフレムは好きだった。  二人きりの小さなパーティではあるが、黙々と、経過する時間を感じながら過ごす食卓ほど苦痛な時間はない。  ガウンを脱いで、ニコルのコートと一緒にハンガーポールに掛けたエフレムは、きらきらと目を輝かせ、さっそく食べる算段をしているだろうニコルに、椅子を引いてやる。立っていないでこっちに来いと食卓につかせる。 「スープを持ってくる。涎を拭いて、大人しく待ってるんだ」  肩をたたくと、「失礼ね」と見上げてくるニコルの唇をちょんと突いて、エフレムはキッチンへ引っ込んだ。  自画自賛しても恥ずかしくないくらいには上出来に仕上がったポトフを、あらかじめ用意してあった皿に掬い、トレイに乗せて食卓へと運び入れる。 「お料理するの、本当に久しぶりみたいね。ちょっと、作りすぎよ」 「なかなか、作る機会がなくてな。夢中になりすぎて、気付いたらこれだ」  椅子に座り、エフレムの手元をじっと見つめるニコルはポトフから漂う香りに目尻をうっとりと垂らした。  六人掛けの大きなテーブルにはレストラン並みの食器と、ナイフが入るのを今か今かと待ちわびる沢山の料理が所狭しと並んでいる。  丁度良く焼けている鶏の丸焼きは、見た目だけでなく、たち上る香ばしい匂いで空腹の胃袋を掴んでくる。  ごくりと、細い喉を鳴らすニコルにエフレムは上機嫌になっていくのを自覚して苦笑を零す。思っていたよりも、若造を相手にしている日々にむしゃくしゃしていたようだ。 「作る機会っていうよりは、食べさせる機会がなかった……でしょう? 相変わらず、広いお屋敷にひとりぼっちなの?」 「周りからあまり良く思われていないのは、お前だって知っているだろう? 渋い顔をされるとわかっていて、招待するほど寂しがり屋でもないんでな」 「強がっちゃって」と笑うニコルに「本当だ」と返してエフレムは赤ワインをグラスに注ぐ。昼間、ニコルから送られた物だ。 「いいワインだな。ワインはいいが……一緒に送られてきたジュースはなんだ? 甘い物は苦手だって知ってるだろう?」 「おじさまが、懇意にしている坊やへプレゼントしてあげて。彼、お酒が苦手だってきいたから」  向かい合うように席に座り、ワイングラスを持ち上げたエフレムは上質な葡萄の香りを堪能する。用意した料理に良く合いそうだ。 「ワインと同じ葡萄を搾ったジュースよ。甘いけど、美味しいと思うわ」  ニコルの言う坊やは、考えるまでもなくニールのことだ。  懇意にしているわけではないが、毎夜のように顔を会わせていては、はっきりと否定もできない。 「さすが、貿易商兼情報屋だ。耳が早いな」 「褒めてくれるのは嬉しいけれど、おじさまも坊やも目立つから……わりと周知の事実になっているわよ。気をつけたほうがいいわ」 「忠告、感謝するよ」  ワイングラスを持ち上げたニコルに、エフレムもワイングラスを持ち上げる。 「何に乾杯しましょうか?」 「無事の再会、ってところでいいだろ。さあ、早く食べてくれ。お前に食べさせるために作ったんだからな」  ――チン。  薄いグラスでキスを交わし、エフレムはゆっくりと深い味わいの赤を飲み下した。 ◆◇◆◇ 「張り切りすぎよ、おじさま。頑張って食べたけど、さすがにもうお腹いっぱい!」  ナイフとフォークを置いたニコルが、椅子の背に寄りかかって音を上げた。  言葉のとおり、ニコルはずいぶんと頑張ってくれたようで、これ見よがしに摩ってみせる腹は子供のように胃がだいぶ膨らんでいる。  綺麗に引いてあった口紅も、ソースと油で落ちて酷い有様になっていた。  とはいえ、幸せそうなニコルの表情は作り手冥利に尽きるものだった。  エフレムはかグラスにワインを継ぎ足しながら、戦場跡と化したテーブルを眺める。デザートも用意してはいるが、別腹は期待できそうにないのが残念だった。 「腹一杯になってくれたなら、それで良いさ。残り物は一人で処理するよ」 「この量、一人じゃ流石に無理よ。いっぱい食べてくれそうな心当たりはあるでしょ? 坊やに処理して貰いなさいな」 「英雄様を自宅にご招待ってか? 流石にほいほい来るほど子供でもないだろう。そのきがなくたって、勘ぐるだろうさ」  汚れた皿はそのままに、エフレムはつまみになるようなものを小皿により分け、席を立った。 「美味しい料理と美味しいジュースを用意してあるから、おいでって素直に言えばいいのよ。下心があろうとなかろうと、おじさまの料理を食べたら不機嫌なんてすぐにとんでいっちゃうわ」  ニコルは椅子の背にしだれ懸かるよう寄りかかり、ワインを舐めるように飲んでいる。個体は入らないが、液体はまだまだいけるようだ。 「お店でいちゃつくよりも、ここのほうが秘密を守れて良いと思うけど」 「自宅で野郎と、するつもりは無いね。余計なお世話だ。何処で、誰に見られていようが問題はないさ。噂の領域を出るような状況にはならないし、させねぇよ。あれこれ詮索されるのは嫌いなんでな」  薪ストーブが、ぱちぱちと爆ぜるリビング。  異国情緒の文様が丁寧に刺繍されたブランケットを掛けたソファに腰をおろしたエフレムは、小皿に盛ったチーズを抓んでワインで腹に流し込んだ。 「ねえ、おじさま。相変わらずお気に入りのソファで寝ているの?」  がたっと音がして、エフレムは顔を上げた。  グラスとワインボトルを持って、ニコルが席を立った。酔っているのか、床をけるヒールの音が荒々しい。 「寝心地がいいんでね、ついソファで夜を明かしちまう」  豊満な胸を強調するような露出の多いドレスは、男社会で生きてきた鋭さをそのまま女の艶めかしさに変換している。  もう少し若ければ、今すぐ押し倒して食らいついていただろう。欲と体が率直に繫がっていないのは、大人である矜恃が歯止めを利かせているせいだ。  四十を過ぎた男にかまけていては時間が勿体ないと思う半面、側に華のある時間は一日のほとんどを一人で過ごすエフレムにとって至福の時でもあった。自ら遠ざける勇気は、残念ながら持ち合わせていなかった。  ニコルが座れるように移動して、まだだいぶ残っているワインボトルを受け取る。 「夏ならまだ良いけれど、今の時期はまだまだ寒いわ。あまり、体に良くない生活はして欲しくはないわね」 「気をつけようとは、思っている」  言う側から、エフレムは煙草を取り出して火をつけた。 「思っているだけじゃだめなのよ。……あとで、後悔したって知らないんだから」  ワインを一気に煽ったニコルが、そっと体を寄せてくる。  人肌の優しいぬくもりを逃がさないよう、エフレムはニコルの肩に手を回し抱き寄せた。「すまないな。……たぶん、性分なんだ」 「坊やの相手も、自分をついつい痛めつけちゃう性分だからなのかしら。ねえ、おじさま。どうして、今更会おうと思ったの」 「たしかに、今更だ。だが……たぶん、必然だったんだろう。大将も言ってたよ。避けて通れる道じゃ無んだから、逃げるなってな」  肺いっぱいに吸い込んだ紫煙を、溜息交じりに吐き出す。  「辛いなら、止めてしまえば良いのにって言いたいところだけど……死んだふりしているおじさまを見ているよりはいっそ、なんて思ったりもしてるの」 「今日はやけに湿っぽいな、ニコル」  ニコルはワイングラスをソファーテーブルに置き、猫がじゃれるよう膝の上に転がった。 「美味しいお酒に、美味しいお料理よ。酔わないわけないでしょ」  たしかに。  エフレムは笑って、ニコルのグラスにワインを注ぐ。 「ねえ、おじさま。ソファもブランケットも最高に気持ちが良いけれど、私はベッドがいいわ」 「二人で寝るには、ソファは狭い」  するっと、髪留めを引き抜き。腰まである長い髪を指に絡めて笑うニコルの頬を撫でたエフレムは、誘われるまま唇をかさねた。

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