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第8話

 寝ている間、何度か美しい歌を聞いた気がした。   そして。とても良い香りに己が包まれていることに気づいて、ゼクスはゆっくりと目を覚ました。ある程度毒には慣れているはずだった。昏倒までしたのは久しぶりだ。そう思いながら上体を起こすと、足元に重みがあることに気づいた。 「ご主人様?! お目覚めになられたのですね!」  明るい声をかけながら入ってきたのは、私邸の侍女だ。昏倒した後、私邸の寝室まで運ばれてきたらしい。己の顔に触れると髭が伸びていて、長い時間寝ていたことは分かった。そうして、足元の重みは――。 「ああ、申し訳ありません。テア様が、どうしても離れたがらなくて。テア様も体調を崩されてはいけないと、説得したのですが。すぐ起こしますね」 「いや、そのままで良い」  では洗顔の準備を、と侍女がまた部屋を下がっていった。今の会話でも、テアは起きなかった。余程深い眠りなのだろう。侍女が来るまでの間、己の部屋を見回すと、窓際に溢れんばかりの花が花瓶にささっていた。良い香りの正体はこれだったらしい。侍女が洗顔の準備を持って戻ってくると、花を見ているゼクスに気づき「それはテア様が……」と口を開いた。 「お見舞いの時は、花を持っていくものだと誰かが教えたようなのです。ルアフ様に付き添って頂いて、毎日お城までお花を頂きに伺ってました。それ以外はずっと、食べる物も食べずゼクス様のお傍に……ゼクス様がお目覚めになるのを見守るんだってすごく、頑張っていらっしゃって」 「……そうだったのか」  髭を剃り、少しの間様子を見ていたが、一向にテアが起きる気配はない。さすがに生きているのだろうかとこちらが心配になり、寝台から降りて顔を近づけると、静かな寝息が聞こえてきた。寝台に投げ出されている指には傷が増えている。脳裏に、テアが叫ぶ声が蘇った。 「――テア」  ずっと寝かせておいてあげたい気持ちと、安堵させてやりたい気持ちと――両方の気持ちがぶつかった、逡巡した末に小声で呼びかけると、むくりとテアが顔を上げた。まだ眠たそうに何度か瞬きをして、くあ、と欠伸をしている。侍女の言う通り、確かにテアの顔色も悪かった。白い肌をしているので、目の下の隈ははっきりと青く浮かび上がっているし、そもそもテアはゼクスがいなければ食事をしなかったはずだ。 「テア。大丈夫か?」  肩を掴んで呼びかけると、一瞬テアがビクリと身体を震わせ――それから、あの綺麗な青い瞳を大きく開いて、まじまじとゼクスを見てきた。起きているゼクスに気づいたら、飛びついて喜んでくれるだろうか、などと考えていたゼクスだったが、テアは固まったまま動かない。テア、ともう一度呼ぶと、テアの目から突然、大粒の涙が溢れ出てきた。それから、そっとした手つきで、ゼクスの寝衣の裾を掴んでくる。 「……あんたも、死んじゃうのかって思ったら……怖かった……!」  テアは、大声を上げて泣いたりはしない。必死に泣き声を堪えている。テアの身体は、ずっと小刻みに震えていた。恐怖を、感じていたのだ。それが堪らず愛しく想えて、テアの身体を抱き寄せると、気のせいか身体が軽くなっている気がした。 「悪運が強いからな。今回も、何とか生きていた」 「……その、言い方っ!」  テアが怒ったが、それすらも愛しくて、テアの小さな唇へと口づけていた。ゆっくりと触れると、おずおずと返してくる。寝癖がついている柔らかな髪へと手を伸ばしながら、テアの眦に口づけた。 「やはり、甘いな」 「甘い……?」  きょとんとなったテアに笑いかけたところで、扉をノックする音が聞こえた。侍女から、ゼクスが目を覚ましたことを聞き、駆け付けてきた医師やルアフたちだった。    寝台に戻ったゼクスは、医師から問題ないと診断を受けつつも、首を傾げられていた。 「この度は、本当に運が良かったとしか言いようがありません。まだ調べている途中ですが、我が国には解毒剤のない毒だったと考えられます」 「そうだろうな。解毒剤があるものは、私にも耐性がある」  イグナハートには専任の毒見役が数人いるが、晩餐会などは場の性質上、毒見役が使えないこともある。そういう場ではゼクス自身がイグナハートの代わりに食事をすることがあるため、幼い頃から毒への耐性を持つために訓練は受けてきていた。耐性を持たない毒に対しては、ふつうの人とそう変わりなく効果が出てしまう。本当に運が良い、とイグナハート付きの医師が繰り返した。ゼクスの寝衣から手を離さないまま、テアが寝息を立て始める。ゼクスが医師に頷き返すと、医師もようやく安堵の表情をして帰っていくのだった。 *** 「今回こそは、さすがにもうダメかと思いましたよ」 「それは、私も思った」  再び眠り始めたテアを侍女たちが迎えに来た。しかし、ゼクスの寝台に寝かせてしまうと、侍女たちを戻し、ゼクス自身は椅子に座ってルアフと相対していた。淡々と返してくる主にルアフが嘆息をつく。 「そういえば……私が昏睡している時に、テアが色々と迷惑をかけてしまったようだな。すまなかった」 「テア殿が迷惑なんて、一つもありませんでしたよ。むしろ、こちらこそ謝らなければなりません。……陛下が宴の場に、動揺したままのテア殿を連れ出してしまいまして。もう、大騒ぎです。その騒ぎのお蔭で、殿下を早めに私邸までお連れすることができたのですが」  無意識のうちに、ゼクスは立ち上がっていた。事前の打ち合わせでは、晩餐会を盛り上げるために、『歌を歌う鳥』が披露されるとだけ聞いていた――が、その鳥はテアのことだったというのか。 「テア殿が歌えば、殿下――ゼクス様を早く助けられるからと陛下が申されて……テア殿は、頑張って歌われていました。申し訳ありません、ゼクス様のご意向を守ることができず」  頭を下げてきたルアフのつむじを見ながら、ゼクスは呆然としていた。頭が混乱しているのだ。 「テア殿は、もしかしたら人の前で歌った経験もあるのかもしれませんね。とても通る声で……本当に頑張っていらっしゃったので、後で褒めてあげてください。来賓の方々はみな聞き惚れていましたし、あの傲慢な宮廷音楽師たちすらテア殿が歌い終わった後は楽器を置いて立ち上がり、拍手を送っていました。ゼクス様を城から連れ出した後、すぐに控えの間にお戻ししましたが、テア殿の正体を知りたいと……それはもう、大変なことに」 「……テアが、人前で? そうか」  衣装だけでもアストレア族だと言っているようなものなのに、歌も上手で顔も美しければ、自ら正体を名乗っているようなものだろう。これからのことを、早々にイグナハートとも相談しなければならないな、と思う。テアを連れ出したということは、テアを隠しておくつもりはないというイグナハートの意思も感じられる。ゼクスも、テアをずっとこの私邸に閉じ込めておくつもりはなかった。だからこそ、覚悟を決めてイグナハートに引き合わせたのだ。 「ゼクス様は、テア殿に感情を入れ過ぎではと窘めるべきなのでしょうが……ゼクス様を、死の淵から引き戻してくれたのは、テア殿じゃないかと自分は考えているのです」  ルアフは現実主義なところがある。不思議といわれるものは勿論、神すらも信じない男だ。迷いながらそう口にした腹心の配下に、ゼクスは笑い返した。 「不思議だな、私も同じことを考えていた。テアの声だけは、聞こえていたんだ……ずっと」  そうですか、とルアフも微笑み返す。  ゼクスが昏睡していた間の報告や、イグナハートからの伝言など一通り行って、ルアフは帰っていった。 (兄上のためだけに、存在する命だったのに)  テアは、違うと言う。 (ずっと……泣いていたのか)  意識が消えていく中、テアの声がずっと聞こえていた気がする。死ねば、誰にもその死を知られることもなく、消えていく命だったはずだったのに。 「……困ったな。手放せなくなってしまう」  寝台に腰かけると、ゼクスの重みで寝台が軋んだ。テアに触れてみても、ぐっすり眠ったままの青年は目を覚まさない。額に口づけると、テアが僅かに身じろいだ。

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