38 / 107

第一章・38

 ざわめく客席が、申し合わせたように静まり返った。  舞台に、ライトが灯ったのだ。  空は袖で、雅臣と握手をしていた。 「行ってくるね」 「ずっと、傍にいるよ」  眩しいライトの中へ、空は颯爽と出て行った。  静かになったはずの客席に、さざ波のようなざわめきが。  空が、楽譜を持っていないのだ。  譜めくりの人間がやってくる気配もない。  人々の困惑の中、空は鍵盤に軽く指を置いた。  デビューの記念すべき一曲目は、シューベルト『4つの即興曲 op. 90』だ。  薄暗く物悲しい旋律の多いこの曲は、雅臣と出会う前の僕を表している。  冷たく深い海底に横たわり、息苦しさに耐えていた頃の僕だ。

ともだちにシェアしよう!