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第3話

 バイトをはじめて数日目。夜の時間帯は神野と豊島くんの二人だけだ。  ケーキのメニューはしっかり頭に入っているが、接客自体は豊島くんにははじめての経験だった。 「豊島くん、もう少し笑顔出してね。うちの店にはみんな幸せを買いに来てるんだからね」  神々しいような微笑みを見せて神野がたしなめる。決して責めるのではなく優しさのこもった指摘だ。神野の穏やかさと気遣いとを感じた。 「はい。すみませんっ」 「君はいつも元気だね。それに素直だ。それは美徳だよ」  いくつも年上の人間から美徳だなどと言われて、彼は神妙な顔になる。 「まだ緊張してるのかな。ほら、リラックスして」  客がいなかったせいか、神野はフランクに豊島くんに接してきた。  後ろから両手を肩において力を加えられる。年上の人に、しかも雇用主にマッサージを施され妙な気分になった。 「あ、あの」 「肩こってるよ」  かがみ込んで、顔を肩の近くによせての囁きが、彼の耳を打つ。  吐息が頬に触れる。  なぜだかどきっとしていた。 「豊島くんけっこう華奢だよね」 「え、あ、そうですか」 「そうだよ。私と比べるとひとまわり違う」   手が下がって豊島くんの二の腕を両脇から押し包む。 「あんまり筋肉もついてないし」 「う、それはなんというか、情けないですけど」  非力な自分にはコンプレックスがあった。 「ああ、ごめん、ごめん。でも毎日ケーキ食べてるのに太ってもいないね」  確かめる手が背中をさすった。  やさしい力で肩甲骨を確かめられる。それがするりと動いて背筋を伝った。 「あ、あの」  くすぐったくて、うさぎのようにその場でぴょんと飛び跳ねる。しかし神野の手はふたたび触れてきた。  まるで自分のものに触れるような自然な動きだ。 「しなやかな身体をしているね」  左手でさりげなく腰をサポートしながら、右手は肩を揉み続ける。 「神野さん……」  これはどういう状況なのだろうと混乱しながらも、豊島くんは逃げ出すことが出来ない。 「やっぱり若いと違うね」 「若いって、神野さんだってまだそんなこと言う年じゃないでしょ」  豊島くんは18才、神野は30才だ。ひとまわり違う。 「そうかな。とっくにいい年だよ。田舎の両親からは結婚を勧められて辟易している」 「そうなんですか。まだその気じゃないんですね。でも神野さん優しいし穏やかだし安心できる人だけど……。きっと神野さんと結婚する人はスイーツみたいに甘くて幸せになれると思いますよ。俺、自分が女の子だったら神野さんとスイーツデートしたいな」 「デート……」  驚きに、神野の眼にさっと色がひらめいた。 「あ、あれ、俺、変なこと言いましたか。すいません」 「いや。そんなことは……、そうか、スイーツデートか………。うん、いいね」 口の中でもごもごとなにか言っている。 「神野さん?」  しばらく黙り込んでしまった神野だったが、やがて突然に決然と顔をあげた。  温和な微笑みを浮かべ豊島くんの顔を間近から覗き込む。  眼と眼があった。  危険な距離だ。  しかし豊島くんはその危うい近さに気づかない。 「こんど敵情視察しに行こうか。駅向こうのカフェに」  神野は豊島くんの前に美味しい餌のついた釣り糸をたらしたのだ。スイーツという名の餌を。 「はいっ」  その少しだけ邪気のある思惑に気がつかない素直な彼は、一も二もなく元気な返事をし、晒された釣り針に食いついていた。  尾ひれがひらひら揺れているのが見えるようだ。 「今度の火曜日の夕方、駅の北口で待ち合わせよう。もちろん私がおごるよ」 「いいんですか」 「必要経費だよ」  神野は茶目っ気のあるウィンクをする。フランス帰りだという神野の堂にいったウィンクに豊島くんはどぎまぎしてしまった。

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