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第4話

 勤務時間以外にも神野と話すことがどんどん増えている。年の離れた優しいお兄さんという感じで、近しくなれたことにすっかり豊島くんは浮かれていた。  この時期、豊島くんはすでに半袖になっており、神野は麻の薄手のジャケットをはおっている。柔らかなベージュ色は神野の穏やかさを補ってさらに優しい印象だ。スタンドカラーの白いシャツは清潔感を引き出している。  コックコート姿でない神野と会うのは彼ははじめてだった。 「いつもの格好と違っていて妙な感じです」  パティシエ姿を見慣れているので最初は違和感があった。だが少しするとそれも慣れた。むしろ惚れぼれと眺めてしまう。 「背が高いとなに着てもかっこいいですよね」  彼は心の底から褒めたのだが、神野はちょっと眉根を寄せただけでそれを受け流していた。  神野の胸の中では実はいま、相反する感情が吹きすさんでいるのだ。  素直でピュアで鈍感な豊島くんがちょっとだけ憎らしかった。  敵情視察と言ってもなにをする訳でもない。  結局のところ、ただただふたりは美味しいスイーツを味わっておしゃべりしているだけだった。  スイーツは舌で、眼で、楽しんで味わうのだ。そしてカフェの雰囲気や食べている人の反応をチェックする。それで十分だという。  『住み分け』というものがあって、それぞれの強みや特性がかぶらなければせまい範囲に存在するスイーツ店でも共存出来ると、神野は考えているようだった。 「俺がケーキ食べまくってる割に太ってないって前に言ってましたけど、神野さんこそ太ってないですよね」 「そうだね、体質かもしれないね。なんて……実は私はスイーツの妖精だから太らないんだよ」  神野は澄ました顔でそう言った。 「妖精……って、そういう冗談、真顔で言うのやめてくださいね。俺、信じちゃいますから」  それとも本気の言葉だったのだろうか。  それはちょっとイタイかもしれないけど、むしろおかしくないのかもしれない。  神野くらい美味しいスイーツを生み出す人は、特別な力を持っているのだ。  宙を飛ぶ妖精がケーキの上から美味しさを振りかけてくれるイメージ。  キラキラとまばゆい粉糖のシャワー。  自分にはない才能を、大方の人々が持ってない魅力を、神野は持っている。  うらやましいし、憧れる。  たぶん神野は確かな舌をしているのだ。そして自分の感じた幸せな美味しさを形にすることのできる腕を持っていた。スイーツの神様に選ばれた特別な人だ。  神野の指先を注視していた彼は不意の質問にちょっとだけ慌てた。 「学校はどう?」 「えっと、レポートとかいろいろあってなんだか忙しいです」 「ごめんね、土日もバイトに入ってもらってるから、あまり休めてないよね」 『パティスリーゴッドフィールド』は毎週火曜日が定休日だ。 「でも神野さんにフランス語教えてもらって助かってますよ」  学校で豊島くんは第二外国語にフランス語を選択している。本場で鍛えた神野のフランス語は発音が良くて大変助かっていた。  豊島くんは現在家政学部のある大学に通っているのだ。いまは栄養学などを学んでいる。まずは栄養士の資格を取って手に職をと思っていた。今時の若者にしてはかなり堅実だ。  それらは栄養士だった母の意向で、母子家庭に育った彼への苦言でもあった。  絶対に借金はしないこと。  人には感謝をすること。  卑屈にならないこと。  そんな風な教えと約束がいくつもあった。  その母が1年前にあっけなく事故で亡くなった。  生命保険に入っていた母は、予想外に早い死によって予想外に多い保険金を豊島くんに残してくれた。  たまらなく寂しくはなったけれど、そのありがたいお金で大学の費用は賄えたのだ。卒業後は栄養士の資格を生かして働きながら、製菓学校の洋菓子部門で夜間に勉強したいと思っていた。  スイーツは好きだがパティシエは憧れの範疇だ。センスや才能がものを言う世界。神野のように神がかったなにかを自分は持っていないと、豊島くんは冷静に判断している。 それでもいつか少しでもスイーツに関わる仕事に就きたい。  その気持ちは抑えられないものだった。  そして神野の元で働くようになってやはり自分はスイーツが大好きなんだと確信した。  味わう側だけでなく作る側に携わりたい。 少しでも役に立ちたい。  自分が神野のプリンで幸せや感動を覚えたように、自分の関わったもので誰かを幸せに出来たらいい。 「神野さん。はじめてゴッドフィールドに行った日に、俺、恥ずかしいけど泣いてしまったじゃないですか」  恐るおそる話を振ると、涼しい顔の神野がなにごともないように頷く。彼が変に構えているのを察しているのか、優しく、さりげなく、仕草で先をうながしてくれた。 「俺、神野さんのプリンがおいしくて、懐かしくて、でも切なくて……」  話はじめておきながら心の整理が出来ていない。つっかえつっかえ言葉を探す。 「一年前のあの日。あの日の朝。出がけに母が言ったんです。『明日の誕生日にはどんぶりプリン作ってあげるわ』って。なのにその日に母は事故にあって……」  『あんたは本当にプリンが好きよね。でも、まあ、あんなにおいしそうに食べてもらえると作り甲斐があるわ。それじゃ、いってきます』  それが最後の言葉となってしまったのだ。  相手の車はかなりスピードが出ていたらしく、事故の際に豊島くんの母の手荷物は破損してしまった。その為に豊島くんに連絡がついたのはかなり時間が経ってしまっていた。臨終の場面には立ち会えなかったのだ。 「プリン作ってもらえなかったなって思ってて。それが心残りで……」  もう一度あの甘くてでかいプリンを食べられたらと常々考えていたところへ、神野の店が開店したのだった。 「俺、普段はそんな泣き虫じゃないんです。あの時は特別で」  言い訳のように必死に言いつのる彼を神野は思慮深い眼で見ている。鷹揚にうなづき口を開いた。 「私のプリンは少しは君の役に立ったのかな」 「立ちましたよ。もちろん」  シンプルで優しくて甘くて大きいプリン。  母が生き返って作ってくれたのかと思ったほどだった。  神野の手は魔法のようだ。 「豊島くん。これ使って」  唐突に差し出されたハンカチに、彼は自分の眼に涙がにじんでいることを知った。 「す、すいません」  受け取って、慌てて目元に押し当てる。さっき泣き虫じゃないって言ったばかりなのに。 「俺、ずっと誰にも言えなくて………。こんな気持ちは自分だけで抱えてなきゃいけないって思ってて」 「悲しみは分けるといい。そうしたら楽になれる。また辛いことや悲しいことに見舞われたなら、今みたいに私に話してごらん。私は君よりずっと大人だから、持ちこたえられるよ。君はその分心が軽くなって自由になれる」 「神野さん」 「辛かったね」  伸ばされた手のひらが豊島くんの頬をそっと撫でた。  ああ、そうだ、自分は辛かったのだ。なのにそんなことも自覚していなかった。日々生きるのに精いっぱいで考える余裕もなかった。いや、無意識のうちに考えることを避けていたのかもしれない。  彼は神野のハンカチをぎゅっと握る。目元をごしごしと拭く。 「ほら、そんな風に強く拭いちゃだめだよ」  神野は優しく囁いて、豊島くんの手を上から押さえるようにして握る。その暖かさに、堪え切れずに豊島くんは人目もはばからずぼろぼろと涙をこぼしていた。

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