営業時間終了後、豊島くんは神野の部屋に呼ばれていた。 　ソファーに並んで腰かけた二人の前にはシフト表が置いてある。 　いつもならうきうきしているところだが今日はばつが悪い。 　テストの点があまり良くなかったことを知られてしまったし、田崎といさかいになったのも見られているようだ。 　あの時、田崎の失礼な挑発にめずらしく神野も厳しい眼をしていたと思う。 　神野の眉が今もよっているところをみると、かなりの不機嫌だと伺えた。 　シフトの調整の話をするはずが、その前にと、神野がお説教をはじめる。 「君には反省すべき点がある。分かっているかな」 「えっと」 「君は鈍感すぎる。そのうえ無防備だ」 「それは酷いです、神野さん」 　うっすらそんな気はしていたが、ハッキリ言われて傷ついたと言わんばかりに、頬を膨らます。 　その顔すらかわいくてたまらないと思ってしまうのだから自分は重傷だと、神野はしばし天を仰いだ。 　心配をため息に変えて吐き出す。 「私は心配してるんだよ。田崎と言ったね。あの男には気をつけたほうがいい」 「どういう意味ですか」 「私をひどく敵視していた。君には不必要になれなれしかった。どういう状態だか分からないのかい」 　ぴんと来てない彼に諭すように言う。 「彼は君が好きなんだ。私と同じように、男だけど男の君を好きなんだ。だから私は彼にとってライバルなんだよ。あれは嫉妬の表情だったんだ」 「まさか、田崎がそんな」 　入学当初、女子ばかりの環境で戸惑い委縮する中、月日はどんどん過ぎて行った。 　なかなか友達が出来ない。 　そんなある日、豊島くんに声をかけてくれたのが田崎だったのだ。 　頭の回転の速い田崎は、要領の悪い豊島くんを助けてくれる優しい友人だ。 　はたして神野の言うような眼で彼を見ているというのは本当だろうか。 「君は自分の魅力を過小評価しすぎだ。こんなにかわいくて、愛らしくて、いつも元気で明るくて。君の魅力にふらふらする奴が出たっておかしくないんだよ。現に私がそうじゃないか。君がかわいくて、好きすぎて、一回りも年が離れてるのにこんなに夢中になってる」 　そうとう恥かしいことを言いつのっているのだが、神野は限りなく真剣だった。 　真剣に彼を心配しているのだ。 「君が心配でたまらない。君は流されやすいから、うっかりあの男の甘言に乗せられてしまうんじゃないかと思うとたまらないんだ」 「カンゲンって」 　頭の中で変換できなくて豊島くんはぼんやりと聞き返す。神野は深く息をついた。 　素朴で無防備であどけない彼の魅力は諸刃の剣だ。 　そのまま放置していたらあっけなく誰かに盗られてしまうかもしれない。 　焦りが、いつも冷静沈着な神野の心を塗り込めてしまっていた。 「誰にも渡したくない」 　低い声で彼を追い詰める。 「君は私のものだ」 　宣言して、神野は彼をそのままソファーに押し倒していた。 「神野さん、そんな急に……」 　らしくない強引な力で彼を抑え込む。上に伸し掛かり無理やり唇を奪っていた。 　ディープなそれに豊島くんは圧倒される。 　腕を痛いほど掴まれびっくりした。こんな神野はじめてだ。 　明るい電灯の下、このままソファーの上で行為に至る気らしい。 「ちょっと、神野さん、待って……、いたっ」 　喉元を強く咬まれて驚く。 　いつもは、見える場所には跡を付けないよう気をつけてくれていたのに。 　まるで所有を示すような激しさだ。 　しかもいきなり下肢に手が伸びて来てベルトを外される。 　今日の神野はなんだかとても変だと豊島くんは身体がすくんだ。 　彼の気持ちを優先させてくれる神野の姿が今はない。 　紳士的で丁寧な態度も鳴りを潜めている。 　はじめて感じる荒々しさだった。 「どうしたんですか、神野さん」 　パニクって目に涙が盛り上がる。 「やめてください、やめて」 「だめだ。やめない。君が私のものだということを身体に教えてあげるんだ」 「俺はものじゃない」 　身体に教えるという言い方にも違和感があった。 　まるで彼のことを尊重していない。 　神野が神野らしくない。 「放してください」 　精一杯の力で神野の胸を押し返す。 　こぶしを作って激しく叩いた。目測を誤ったそれは神野の顎をちょうど打った。 　ひるんだところを、頭をぶつけるようにして跳ね除ける。 　豊島くんはソファーから転がり落ちた。 　這って戸口のところまで行くと震える足で立ち上がる。振り返り、悲鳴のように叫んだ。 「こんなの神野さんじゃない！」 「豊島くん」 「いつも優しいのに今日はどうしたんですか」 　非難する声になってしまっている。その非難を受けて神野は苦悩した顔を見せた。けれど、めずらしく大きな声を出して言い返す。 「私だって人間だ。嫉妬もする。君が誰かに奪われやしないかやきもきする。君が好きだ。君を自分のものにしておきたい。あんな男に君を渡せない。これは当然の感情なんだ」 「だからってこんなのはいやだ」 　信じられない思いだった。 「俺、神野さんが怖い」 　怖いという言葉に神野はハッとしたようだ。 「豊島くん、私は……」 「神野さんはいつも優しくて大人で、俺を愛して幸せにしてくれる。俺、そういう神野さんが好きです。今の神野さんは神野さんじゃない」 　彼の眼から次々に涙があふれ出す。 「豊島くん、ごめん」 　神野は目が覚めたような顔をしていた。自分で自分のことが信じられないと言わんばかりに首を左右に振る。 「酷いことをした。許しておくれ」 　ラグの上に膝をつき肩を落としていた。 　意気消沈するそんな姿は見たくないと、豊島くんは心から思う。 　そして、そうさせる原因となったのが自分なのだと思ったら、胸がきゅっと痛んだ。 　神野は本来が優しくて穏やかな人間だ。乱暴な真似などしない常識人だった。それがこんな風になるなんて。 　俺のせいで。 「俺が鈍感で無防備だから、神野さんを心配させて怒らせちゃったのかな……」 　涙が止まらない。悲しかった。 「すまない。豊島くん」 　真摯な謝罪の言葉を耳にしながらも、悲しみにまみれて豊島くんは身を翻らせる。 　そしてそのまま神野の部屋を出て行ったのだ。