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第19話
頬と頭の傷の応急手当は神野がしてくれた。
病院に行くのを豊島くんがいやがったからだ。
神野は苦悩するような顔で豊島くんを見守っている。
今は、腫れた頬と頭の傷とを、ハンドタオルにくるんだ保冷材で冷やしてくれていた。
なかなか状況を話したがらない彼に、辛抱強く神野は接する。
それに、神野自身、先刻の強引な行いを反省しているのか、先に謝罪の言葉を口にして来た。
「さっきは怯えさせてごめんね。私を怖く思っただろう」
まずはそのことを謝っておかなければ気が済まないようだった。
「感情に任せて君に酷いことをした。ごめん。許してもらえるかな」
謝ってばかりの神野が豊島くんには不思議に思える。
「あ、その……そのことは、俺が鈍かったせいだし。神野さんは悪くないと思います。神野さんは俺を心配してくれて……、気をつけてって教えてくれて………」
その心配どおりに無防備だったから男に襲われたのだ。
その事実を思い起こして悔し涙がはらはらこぼれる。
豊島くんの心は今ひび割れている。
「あんなことをした私を君はもう信用してくれてないかもしれないけど……」
そう前置きして神野はまっすぐな眼をした。
「いやでなければ、公園でなにがあったか私に話してくれないか?」
「……神野さん。俺」
沈黙が彼の告白を後押しする。
「俺……くやしい」
豊島くんはひとしきり涙を流し、神野はただ彼をあやしていた。
温かく大きな手でぎゅっと手を握られて、彼も握り返す。
優しいキスが彼を宥める。
恋人の温かい胸の中で彼はしばらくたゆたい、やがて穏やかな水面のように心が落ち着いた。
ぽつりぽつりと語り出す。
突然に襲われて身も心も犯されたこと。
犯人の顔も声も分からないこと。
ホームレスのおじさんが助けに来てくれたこと。
神野は確認の声をはさんで少しずつ先をうながしていった。
そして随分と時間をかけて彼の話をすべて聞き終えた。
重い沈黙が落ちる。
落ち着いて来た豊島くんとは逆に神野のほうが引きつった顔をしていた。
「大事なことだから確認するよ。これは犯罪なんだ。だけど、君は警察にも病院にも行きたくないんだよね」
「はい」
男性でも強制性交等罪は成立する。
昔はこれほどのことが傷害罪どまりだったと聞いて、信じられないと豊島くんは寒く思った。
あんなに怖くて、痛くて、屈辱的で。
価値観が一変しそうな出来事だった。
相手のことを許す気持ちにはとてもなれない。
「君の気持ちは分かるよ。それでも、一応証拠は保管しておいたほうがいいね。着ていたものはビニール袋に全部入れて。それから、目撃した人を探して証言してもらえるよう話に行こう」
事実をつまびらかにし、警察に届け出て、法的な判断にゆだねることを考慮に入れているようだった。
「もちろん君の意思は尊重するけどね」
誠実な声に豊島くんは頷いた。
警察に行くのは勇気がいることだ。
男のくせにと偏見の眼で見られるかもしれない。
「あの……トイレの外から声をかけてくれたのは……、いつも公園のベンチに座ってるおじいさんです」
その人物なら神野にも覚えがあった。
そして神野は重苦しさの中でさらに声を固くする。
「豊島くん……レイプは、顔見知りの犯行が多いそうだよ。君は犯人に心当たりがあるんじゃないのかな」
「犯人」
胸がシンとしてしまう。
見当はついていた。
「あの気配は」
優しい友達だと思っていたのに。
親切な奴だと感謝していたのに。
「田崎だと、思います」
彼はいきなり背後から頭を殴られた。
犯人は声を一言も発しなかった。
目隠しもされた。
用意周到だったのは、犯人が豊島くんの知っている人間だったからだ。
顔も声も隠したかったのだ。
それでも豊島くんには分かってしまった。
学校ではいつも田崎と一緒にいたのだから。
友達として日々接していたのだから。
「田崎……」
やはり思った通りかという顔をして神野はうなった。
「私はいま自分を責めている。今夜君を怒らせてひとりで帰してしまったことを。本当にばかだった。許してくれ」
「神野さん」
神野は決然とした表情で、そこに憎い人間がいるかのように宙をみた。
「田崎の家はどこだ」
厳しい顔。
いまにも乗り込みそうな勢い。
豊島くんは必死に神野を押しとどめる。
「会って殴ってやる。絞め殺したっていい」
温和で大人な神野らしくない物騒なことを言い出したので、彼は必死に宥めた。
「神野さん、待って。それはいくらなんでも」
「君は私にとって大事な存在だ。それを汚され傷つけられた。許せない」
握るこぶしが震えているのを見てとって、彼は上から手でそれを押さえた。
神野は自分のために怒っているのだ。
「豊島くん、君だってくやしいだろう」
「くやしいです」
涙の跡の残る顔で言う。
「だったら」
「でも、そんなことはやめてください」
「どうしてとめるんだ」
「俺、神野さんにはいつも通りの優しい人でいて欲しいんです。俺のために、神野さんが人を殴るようなそういう悪い人間になったら、俺が苦しくなるから……。だからやめて……」
切々と語られる彼の言葉に神野は顔を歪ませる。
「君は本当に優しいし健気だ。なのに、そういう人間になぜこんな酷いことが起こるんだ」
やりきれないと言った風に神野は首を振った。
そして細心の注意で彼を抱きしめると、いたわるキスを送る。
それでどうにか怒りの矛先を収めたが、厳しい声はそのままに先を続けた。
「それでも、奴にはなんらかの責任を取ってもらわなければいけないと私は思う」
「はい……」
「それよりも、君のことのほうが大事だね。本当に大丈夫なのかい」
「大丈夫ですっ」
失敗した。
すぐに返事をしたために、かえって大丈夫な感じがしなくなってしまった。
神野が眉を寄せる。
もう一度、優しすぎる抱擁を与えながら耳元で囁いた。
「精神的にも肉体的にもダメージは大きいはずだよ。無理はいけない。明日は学校を休んだほうがいいね」
「でも」
「夜道もひとりで歩いてはいけないよ。そうだ、今夜からしばらくは私の元にいなさい。いいね」
少し強い命令口調だった。だが、それも無理はないのかもしれない。
「だけど、いずれ学校に行けばあいつに会わない訳にはいかないだろうしね……」
神野の言う通りだった。
先のことを考えて豊島くんは委縮する。
会いたくない。
それでも、このままでいていい訳がないことも分かっている。
どうしたらいいのだろう。
「考えるのは明日にして今日はもう休む準備をしようか」
神野は彼に風呂に入るようにうながした。
本当はそのまま警察に行って、レイプの証拠保存のために医者に診察をしてもらったほうがいいのだが、それを強要するのは酷だと分かっている。
だから素知らぬ顔をした。
「ひとりではいれる?」
「はい」
おぼつかない足取りで風呂に向かう背中を切ない思いで見送る。
本当は一緒に入ってやりたいのだが、今は身体を見られるのはいやかもしれないと気をまわした。
「豊島くん、君には私がついているからね」
思わず声をかける。
「もうこんなことが二度とないように、誠心誠意私が君を守るよ。守らせておくれ」
振り返った豊島くんは泣くのをぐっとこらえる。なけなしの根性とプライドとで涙を押しとどめる。
そして彼は健気にも、神野にむけて微笑みを作って見せたのだ。
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