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第21話

 豊島くんは頬骨の所を殴られている。  マスクでは隠せない部分が真っ青になったまま登校したので、まわりの女の子たちは大騒ぎだった。  転んだといっても信用はされず、申し訳ないほど心配される。  なぜだかお菓子をくれる者もいて、自分が意外とかわいがられていることを実感した。  田崎とは四時限目の講義が一緒だ。  ちょっと遅れて教室に入ってきた田崎は、豊島くんの席から放れたところにさりげなく座る。  いつもなら近くにやってくるのに。  やはり心にやましいところがあるのかもしれない。  豊島くんは心が沈んだ。  信じたかったのに。  まだ、心のどこかで嘘だと思っていたかったのに。  やがて、講義の終わった階段教室で、出て行こうとした田崎を彼は呼び止めた。 「田崎、話があるんだ」  声が掠れた。  まだ数人の人間が教室の後ろのほうでなにか話をしている。  豊島くんも田崎もしばらく無言で彼らが出て行くのを待った。  ふたりとも視線ひとつ合わせない。  気まずい沈黙が落ちた。  どう切り出そうか。頭の中でシミュレーションしてきたはずなのに混乱している。  息が苦しくなる。  ふたりきりになるのはまだ怖かった。怒らせたらまた暴力を振るわれるかもしれない。  教室の出入口を背中にとり、いつでも逃げ出せるように気をつける。  ポケットに入れた右手には防犯ブザーを握っていた。  少し遠くで、廊下を歩く人の足音も響いている。  いくらなんでもこの場で酷いことにはならないだろう。  緊張のせいで小さな声で彼は話しかけた。 「前にケーキ食べに店に来た日。あの日なんだか妙に突っかかって来たよね」 「そうだったか」   とぼける田崎の様子は落ち着きがなく、いつもと明らかに違う。 「神野さんのこと、田崎は気に入らなかったみたいだったけど……」 「ああ、気に入らないな」  言葉を遮られて、それでも豊島くんは冷静に話を進めることを心掛けた。 「俺もあの時隠さないで正直に教えてればよかったんだよね。神野さんは俺の恋人だよ」  はっきり言ったことで田崎の顔がさっと色をなくす。なにかに救いを求めるように、視線が豊島くんの顔を彷徨った。 「もうつきあい出してから2か月になる。すごく優しくて穏やかな人で、俺は大好きだ。いつも俺を大切に扱ってくれて愛されてるって実感できる。俺も神野さんを愛してる」  田崎が一歩前に出て来た。豊島くんの足は震えながら後ろに一歩下がる。 「お前騙されてるんだよ。あんなに年上だ。お前なんて丸め込まれちまってるだけだろ」 「そんなことはないよ」  しっかりした声が出せている。大丈夫だ。 「俺は神野さんが好きで好きで……だから他の人間と付き合うことなんて考えられない。誰に告白されても断ってるよ」  田崎が自分を思ってくれてたとしても、決して叶わないことなのだ。 「あの日の夜。田崎はどこにいてなにしてた?」 「別になにも」  しらばっくれてはいるが頬のあたりがぴくぴくしている。 「俺はバイトの後、帰り道に公園で男に襲われた」  思い出しただけで冷や汗がこめかみを流れ落ちる。それでも彼は必死になって、つとめて冷静に対処しようと息を深く吸い込んだ。 「レイプされたんだ。殴られて、腕を縛られて、助けてって言ってもやめてくれなくて……強姦されたんだ」  その時のことを思い出して身体が震えて来る。指先が冷たい。  でも。  自分で解決する、そう神野に誓ったのだ。  そうでなければ意味がないと。  いつも情けないけど、非力だけど、俺だって男だ。  泣き寝入りしたら、今後学校にもまともに通えなくなってしまうかもしれない。  負けたくない。  それに、神野にこれ以上心配はかけられない。 「頭殴られて死ぬかと思ったよ」 「それは、酷いな……」  なにか言わなければと思ったのか、田崎はくぐもった声を出し視線を逸らす。それとも自分がした酷いことを反芻しているのかもしれない。 「怖くて、屈辱的で、気持ち悪くて……助けて欲しくて神野さんの名前を呼んだ」  そこで一呼吸してからいよいよ彼は重々しく告げる。 「俺はこのことを警察に届け出ようかどうか、迷ってる」 「警察に」  田崎は引きつった顔を見せる。そんな大胆なことをするとは予想してなかったのだろう。  男が男に犯されたなんて恥ずかしくて他人には言えないはずだ。そう高をくくっていたのかもしれない。  しかし豊島くんは落ち着いていた。 「証拠の衣服も取ってある。犯人の体液がついてるだろうから……。それから、目撃者に証言してもらうことも確約できた」  あのホームレスの男性だ。豊島くんを不憫に思って快く承諾してくれたのだ。  田崎の顔が見る見る青くなっていく。 「俺は……」  苦しそうな声を出した。 「俺はお前が好きなんだ。なのになんだよ。なんでお前あんな奴がいいんだよ」 「田崎」 「お前かわいいから、いくつも年上の男にかどわかされてるんだよ。お前こそ目を覚ませよ」 「違うよ。それは違う」  相容れない話し合いに、豊島くんの心がだんだんと冷えていく。  田崎の一方的な思い入れが彼を傷つけたのだ。  許せない。 「田崎、俺は許せない」  あれは一方的な暴力だ。卑怯者のすることだ。  自分を壊された気持ちが分かるか。  好きだからって強姦してもいいのか。  俺は確かに鈍感だったかもしれない。  思わせぶりだったのかもしれない。  でもだったら力でねじ伏せていいのか。  俺は男だから負けやしない。泣き寝入りなんかしない。  戦うんだ。  意識して息を吸い込む。  豊島くんは、神野に後ろから手をまわされて抱かれている状態をイメージした。  温かい気配。  信用できる優しいくちづけ。  神野がきっと守ってくれる。  大丈夫だ。  しっかりと足を踏みしめる。 「俺は、田崎を軽蔑している」 「豊島……」 「警察に行ってくれ」 「それは」  衝撃を受けて田崎は口ごもった。  今の生活や周りの交友関係、将来……いろんなものが胸に兆したのだろう。そういう大事なものを失うことを考えて引きつった顔で突っ立っている。 「これ以上軽蔑させないでくれ」  自分にもこんな冷たい声が出せるのかと驚くほど低い声だった。  そのせいで、豊島くんの怒りや悲しみは田崎にもしっかりと伝わったようだ。 「豊島、許してくれ」  田崎は俯いてがくりと膝を落とすと。そして床に頭をこすりつけて土下座した。 「誰にも言わないでくれ」  涙声だった。  豊島くんは一瞬反応が出来なくなる。  田崎の言葉は謝罪ではなかった。  懇願だ。  保身だ。  愚かな人間の姿が目の前にあった。  罪を償う気もない友人の姿を見下ろし、悲しい気持ちになる。  非難する言葉も、なじる言葉も、もう出てこなかった。

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