12 / 41

第12話 旅立ち~決意~

「陸奥へ参る」  遮那王が切り出したのは、何度目かの弓張月が西に姿を隠そうとしている頃だった。後朝の微睡みにたゆたい、半ば夢うつつにある弁慶の耳朶をカリリと噛み、揺り起こす。 「止めぬか、この猫め.....」 「我れは猫ではない」  クスクスと笑いながら遮那王は、頭を弁慶の胸板に擦り付けた。あれより以降、弓張月の黄昏になると、足音もなく窟の入り口から覗く被衣姿に弁慶は、すっかりと心を奪われていた。 姿容だけではない。弁慶の腹の下で淫らに咽びながら、悦楽を分かち合う心地好さもあるが、 その後朝だけは、常に猛り狂う己のが内の鬼が鎮まるのだ。 「程なく奥州より使いが来る。お前も共に参るが良い」  遮那王は、ゆったりと身体を起こした。射干玉の髪がはらりと流れて肌をくすぐる。金色の眼をじっと見つめると存外に穏やかな色を湛えて、強請るような素振りを見せる。   ―まっこと猫のようじゃ......―  何ゆえにこれほど懐かれたのか、不思議な心地もするが、久方ぶりに触れる人の肌は良い香りがして、冷えた身体が互いに温まっていく間に交わす口づけに我れを忘れて貪る自分に思わず苦笑することも、しばしばだった。 「陸奥とはまた、急なことだな......理由を聞かせてはもらえぬのか?」 「京は荒れすぎておる。......それに、いささか居心地が悪うなってきた」  源氏の頭領の御曹司と言われながら、互いに隠れて通ってくる清盛-重盛親子にいささか閉口していたのも事実だが、北に渦巻くより大きな力に興味があった。それは、この男......弁慶と繋がっているのだ。 「陸奥には源氏と縁の深い豪族が力を持って君臨しておる。此の方のように人目を忍ばずとも良いのだ...だが......」  猫の瞳が上目遣いで弁慶を見上げた。 「お前が共に来ねば意味が無いのじゃ......」 「俺が?」  細い頚が、こくんと頷いた。 「かの地は、お前の魂の根源と繋がっている。お前の懊惱の元を絶ち切るには、その地に立たねばならぬ.......それとも......」 「お前は、此の地を離れられぬ理由が何かあるのか?」  遮那王らしくない、不安げに窺うような眼差しに弁慶は胸内に何やらくすぐったいものを感じた。異形の魔物らしくもないその可愛いらしげな表情に、思わず苦笑して、滑らかな背を抱き寄せた。 「そのようなものは、無い」  弁慶ほうっと息をつく美しい妖しの背を撫でて言った。 「無い......が、真のことを言わねば行かぬ」 「真のこと?」 「俺が欲しいなら、欲しいと言え。側におらねば寂しいなら寂しいと言え」 「ばっ......」  ほんの戯れ言のつもりだった。幾度も肌を重ねる度に無意識にしがみついてくる、細い頼り無げな肢体を掻き抱きながら、離れたくない、離したくないと思い始めていたのは、自分のほうであることはよくよくと知っていた。が、得体の知れぬこの美しい魔物にそれを告げることは憚られた。一笑に伏される......それが怖かった。  が、意外なことに、その魔物は頬を真っ赤にして俯いてしまった。 「遮那王?」  両手を頬にかけ、上向けさせると、紅い唇が微かに震えて、消え入りそうな声で囁いた。 「我れに.......着いてきてくれ。お前と共にいたいのじゃ.....」  魔物よ妖物と言われ続けた自分を怖れもせず退けもせず、訪なうままに抱き合う......鬼のこの男の与える悦楽は限りなく深かった。それは互いに抱える孤独の深さそのものかもしれない。  人の世の欲のために苦しみから逃れんために遮那王に触れる者達とは違う。弁慶の抱えた底深い大きな哀しみに遮那王自身の魂が共鳴-共振するのを、半ば不可思議な気持ちで、だが安らいで遮那王は感受していた。 「よかろう」  弁慶が淀みの無い声で耳許で囁き、またその腕で、やんわりと遮那王を抱き締めた。暖かい、いや熱い腕に遮那王は再び溺れていった。    数日後、遮那王の言葉通り、先の乱で生き延びた源氏の武士が、奥州は平泉の藤原氏の元に身を寄せる手筈が整ったと知らせてきた。 「如何なさいますか?」 と問う牛若丸に、当然のように遮那王は応えた。 「参る」  既に平重盛には、―小松殿の憂いを除かんがため......―と暇を乞うてある。生真面目な平家の嫡男は、うっすらと目に涙を浮かべていたが、己のが父親の専横が鎮まるなら、法皇さまとの軋轢が解消されるなら......と密かに金子まで用立ててくれた。 ―この世にあっては辛いばかりのお人なれば;.....―  疾く苦しみを除いて差し上げる......とその手を優しく包んで約束を交わした。術はどうあれ、いずれ苦しみからは救われよう......と遮那王は胸の中で呟いた。 「牛若は慧順とともに、迎えのものに着いて発つが良い。我れは密かに後を追う」 「なれどお独りでは......」 「独りでは、ない」  遮那王は、御簾越しに、既に身支度を終えて控えている偉丈夫を指した。 「弁慶じゃ。......此より先は慧順に武蔵坊弁慶と名乗らせよ。我れの......」 ちら......と御簾のあちらを窺い、遮那王の唇が、艶と微笑んだ。 「我れを庇護いたす、連れじゃ。」  牛若丸は、御簾の内に猛る気に弾かれたように頭を下げ、平伏した。  斯くして、遮那王と弁慶、そして牛若丸達の一行は密かに京を発ち、一路、奥州へと向かった......。

ともだちにシェアしよう!