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第18話 魔性の慈悲二~重盛逝去~

 淡い光が幾つもの筋を描いて、眼前を行き過ぎていく......。重盛は重い頭をもたげて、見るともなくそちらを見つめていた。 ―蛍の飛ぶ季節になったか......―  鹿ヶ谷の騒ぎ以来、益々人心は平家から離れていっている。公家や帝の周辺への取り成しすら虚しい。後白河の院は圧力をかけて帝の首すら平然とすげ替える清盛に不快感を隠そうともしない。 ―疲れた......―  平家の惣領たる自分はどんなに父や周囲の遣り様が間違いであっても、それを声高に責めることもできない。正直に有り体に言えば、怖いのだ。父を失い、独りで立たねばならなくなった時、どれ程の重荷が降りかかるのか......。 「やれ、気弱なお人よのぅ......」  部屋の隅、一際闇の深い辺りから、澄んだ笛の音のような、涼風のような声が耳を掠めた。 「遮那王どの......なぜ.....」 ―大きな声を出すな―と、唇に人差し指を充てながら、白い影がするすると近寄ってくる。思わず身を起こした背中を細い腕がそよ......と撫でた。 「あまりに心もとない事ばかり仰せになるゆえ、遠く奥州より見舞いに参った。」 「遮那王どの......」  しれしれと言う口許に微かな笑みが浮かんでいる。重盛は、どうっ......と倒れ込むように、その肉の薄い胸にすがりついた。 「あぁ、真に遮那王殿じゃ......。このゆかしき香しき蘭の如き薫り.......間違いない」 「安堵なされたか?」  遮那王の指が、汗ばみ乱れた髪をそっと撫でた。幽鬼のように痩せて窶れた重盛の頬に僅かばかりの笑みが浮かんだ。落ち窪んだ眼窩から、一筋の滴が零れ落ちた。 「遮那王どの......」  掠れ枯れ果てた声が、遮那王にすがりつく。 「ワシを喰ろうてくれ......」  醜く口を歪め、頬を滴で濡らしながら、平家の惣領は遮那王に魔物に懇願した。 「ワシはもう疲れた。.......これ以上、永らえとうない。......頼む、ワシを喰ろうてくれ......。ワシの身も魂も喰らい尽くして、この世から連れさってくれ.....」 「困った太郎どのじゃ......」 遮那王は、ふぅ.......と息をつくと、くい、とその顎に手を掛けた。 「仕方ないのぅ......。我れが楽にして進ぜよう....」  魔性を帯びた瞳がきらりと光を放ち、遮那王の紅い唇が、微かに震える重盛の土気色の唇に重ねられた。  如何の時が経ったであろうか......。重盛は痩せた頬に僅かに笑みを浮かべ、瞼を閉じたまま、遮那王の膝元に崩れ落ちた。 「如何にも哀れな男であった....」  遮那王は小さく呟き、影に控えていた弁慶に、重盛の身体を床に横たえさせた。 「帰るぞ......」  その声音が、存外に優しかった気がして、弁慶はちくりと胸が、痛むのを感じた。  それより十日の後、平清盛の嫡男、平家の惣領であった平重盛は、一度も目を覚ます事なく、この世を去った。享年四二歳。  ひたすら穏やかに微笑んだまま、還らぬ人となった......。  鞍馬の山合から重盛を送る一筋の煙が天に昇るのを確かめた遮那王と弁慶は早池峰に戻った。山の窟に辿り着いた夜、気づくと遮那王の髪に潜むように、一匹の蛍が身を寄せ淡い光を放っていた。 「水辺から遠く離れた窟の奥じゃというに、どこから来たのやら......」  弁慶が訝しげに触れようとすると、そそくさと身を隠す。遮那王が苦笑しながら手を述べるとひた......とその指に止まり、身を擦り付けるように頭を震わせた。 「六波羅からであろう......のぅ」  遮那王が語りかけると、嬉し気にぽうっ......と身を光らせた。 「小松殿じゃ......」 「なんと、重盛殿の御霊か?」  呆れる弁慶に遮那王は頷き、手を拡げた。 「ここには煩いはない。心静かに過ごされよ」  蛍は再び大きく身を光らせると、窟の何処へか飛び去っていた。 「これで少しも救われよう......」   「優しいのだな......」 「ん?」  その蛍の儚い疾跡を目線で辿りながら、弁慶は半ば皮肉混じり呟いた。 「平家の惣領どのよ。穏やかな顔をしていた」 ―あぁ....―と、遮那王は殊更な興味も無いといったふうで答えた。 「取り付いていた生き霊どもも太郎の生気とどに喰ろうてやったゆえ、少しも楽になったのであろう......」 「慈悲深いことだ......あ奴の魂は喰らわなかったのか?」 「食わぬ。不味い......それに」  遮那王は、不機嫌そうな弁慶の頚に腕を巻き付け、耳許でひそと囁いた。 「他の男を喰らうなと言うたは、お前ぞ」 「当然じゃ.....」  弁慶は小さな蛍となった重盛が哀れにも羨ましくも思え、微かに苦笑いした。  彼の美しい妖物ともに縺れ合って褥に倒れ込み、その冷ややかな肌をまさぐり、己のが印を飽くことなく刻み付ける。    此の世の他の因業を焼き尽くすかのように貪り合うふたりを望月が静かに照らしていた。

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