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第19話 奥州出立 一~牛若の出立~

 平重盛が逝って、やがて一年が過ぎようとしていた。  春も終わりの頃、平泉に戻ったふたりを待ち受けていたのは、喜びに頬を紅潮させる牛若丸だった。 「兄上さまに、頼朝さまに平家討伐の令旨が下ったそうにございます!」  髪を短く切り、きりりと結い上げた姿はいっぱしの若武者だ。が、直垂の水色の袖をひらひらさせて駆け寄る様はまだまだ幼く見えた。 「この奥州にも、平家討伐の出兵を促す令旨が参りました......私にも」 「良かったのぅ......となると我れも発たねばならぬか.....義経殿の影として...のぅ秀衛殿」  にこやかに、だがどことなく苦笑いしながら答える遮那王を秀衛が上目遣いで窺いながら、言った。  「お心のままに......」  遮那王は、ふんと鼻を鳴らした。 「そ、そのような勿体ない......」  慌てて頭を床に擦り付ける牛若丸に、遮那王はにこりともせずに言った。 「良い。いずれ我れは異形の者、侍衆の頭とて姿を晒すには向かん。......そなたは源氏の武士として存分に働くが良かろう」 「は.....」  丁重に頭を下げる一同を見回し、遮那王は改めて溜め息混じりに言った。 「いずれ頼朝が挙兵するであろう。源氏の勢力が充分に至ったを確かめて発つが良い。今しばしかかろうがな......」 「頼朝さまは、勝てましょうか?」  いささか不安気な秀衛の言葉に遮那王は、平らかな口調で告げた。 「あれは龍の加護を得ておる。平家討伐は叶うであろう......」 「本当でございますか!?」  ますます興奮ぎみに身を乗り出す牛若丸に心なしか顔を曇らせ、遮那王は続けた。 「おそらくはな......そなたも良き働きが出来るであろう。.......だが、最も恐ろしきは人じゃ。人の心じゃ。ゆめ忘るるでないぞ.....」  踵を返して、屋敷の内に向かう牛若丸達を遮那王は静かに見送り、くるりと踵を返した。  弁慶がふと見遣ると、その眼は何時よりも寂し気に天を仰いでいた。 「遮那王.....」  言いかけて言葉に詰まる弁慶をくるりと振り向いて、その紅い唇が小さく呟いた。 「牛若丸、いや義経は手柄を立てることは出来よう......だが、あれは素直過ぎる。いずれ龍に食らわれねば良いが......」 「龍じゃと?......加護を得ておるのではないか?」 「加護を得ておるのは、頼朝ただひとりよ。......いや、頼朝を婿とした北条の女とその一族と言うべきか......」  遮那王は大きく溜め息をついた。 「龍はな、天に棲まう霊獣ゆえ、天下を求める者には味方も庇護もするが、その質は冷酷で非情なるものよ。崇高なるものとは言え蛇精に変わりはない」 「では牛若丸は蛇に呑まれると言うのか?」 「牛若だけではない、龍が押し上げようとする者の妨げになるとなれば、全て呑まれる」 「何故、そのような......」 「頼朝は伊豆に流された。伊豆は鄙なだけではない。異界なのだ。龍の巣窟じゃ。長くおれば、その気に染まる」 「なんと......」  言葉にならない不気味さに弁慶は身を強張らせた。自らの鬼とは異なる異様さに背筋が寒くなった。 「そこに、牛若丸を託すのか?」  遮那王は、弁慶の問いに仕方ない......というように、小さく頭を振った。 「あれも義朝の胤じゃ。自らの血の繋がりを恋うは止められぬ」 「どういうことだ?!」  弁慶は言葉に窮した。が、彼方を仰いだまま、遮那王は淡々と語った。 「あれは、義朝が乳母に手を出して産ませた。いや、自分が手を着けた侍女を、我れの乳母とするよう、我が母に勧めたのだ」 「何故に.....」 「その女には夫がいた。密通するには離しておかねばならぬ......我が母と同時期に子を得たのを幸いに、我れを魔王に捧げた。そうして牛若丸を我れに仕えさせ、魔王の加護を得ようとしたのだ......つまりは、我れは牛若丸の守護神にされたのだ。もっとも......」  遮那王は、ぱさり...と御簾を上げた。 「その企みを知るのは、死んだ義朝と我れのみだがな......」 「産みの母も知らぬのか?」 「知らぬ。......乳母は、自分の夫の子と思うておったゆえな。......つまりはどちらとも褥を共にしていたゆえ、しかとは分からぬのだ」 「なんと......女というものは...」  今度は弁慶が溜め息をついた。   「我れは魔王様の力によって知ったのだ。同時に、血は源氏の内に生まれても、源氏のものでは無い......と知った」 「鞍馬の魔性尊の分け御魂....か」 「そうだ。それ故、我れは表に出ることは無い。牛若丸が我れの加護より外れぬ限りは護らねばならぬ」 「龍の牙からも......か?」 「そうだ」  遮那王は、す...と背を伸ばし、真っ直ぐに弁慶を見据えた。 「お前は如何にする?......我れはあれを護り、お前の神に乞われて贄を狩る。が、所詮この世ならぬ者じゃ。人として牛若丸とともに名利を得たくば共に行くが良い」 「何を今さら......俺はお前の傍におる。俺の主はお前だ」  言って、弁慶はじっとその金色の瞳を見つめた。 「俺を鬼の性から救うてくれるは、遮那王、お前だ。お前と居るからこそ、俺は狂わずにおれるのだ。俺はお前の贄だ。だから、ずっとお前の傍にいさせてくれ....」  ふ...と遮那王の頬に柔らかな笑みが微かに浮かんだ。 「ならば傍におるが良い....我れにはそれで十分だ」  お前さえいれば......と遮那王が天に向かって呟いたその声は風に紛れて消えた。が、代わりに弁慶の熱い腕がその背を抱いていた。

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