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第20話 奥州出立 二~遮那王出立~

―治承四年(一一八〇年)八月に挙兵した頼朝は、初戦に敗れ安房に逃れた。  が、二ヶ月後、冨士川にて水鳥の羽音を敵襲と間違えた平家の大軍が敗走し、結果として勝利を得た―  牛若丸が、佐藤兄弟と慧順とを伴って奥州平泉を発ったのは、その少し前のことだった。 「お止めはしたのですが......」  秀衛は宮を訪れ、仕方なしに牛若丸を出立させたことを御簾の内の遮那王に告げた。上目遣いで窺う魔王の姿は相変わらず極めて静かだったが、その相貌に微かな憂いが浮かんでいることを弁慶は見て取った。 「致し方あるまい。......あれも源氏の子じゃ。主が起ったとなれば、血も騒ごう」 「遮那王さま......」   「あれを可愛がってもろうておったに......済まぬことをしたな。詫びを申す」 「いえ、そのような......」  秀衛は平伏しつつも、密かに首を疎ませた。 ―ご存知であったか......―  牛若丸が、この平泉に到ってから程なくして、秀衛は牛若丸と褥を共にしていた。遮那王までに至らぬとしても、鄙にはおらぬ美貌の優男であるには代わりない。奥州の益荒雄どもの中にあっては異質で、夜這いの対象とされる怖れが無いわけではない。僧侶の慧順には防ぎきれない。思案した結果、当主の秀衛の寵愛を受けている......となれば、厄介な事は起きまい、と踏んだのだった。  もっとも、それは建前で秀衛とて女と見違うような美貌の少年とあらば食指が伸びぬわけではない。 「あれは、寂しい男じゃ。いずれはまた、そこもとの手の内に帰って来ることになろう。その時にはまた、暖こう迎えてやってくれるか?」 「は......」  秀衛は、今一度、深く頭を垂れ、恐る恐る遮那王に尋ねた。 「して、遮那王さまは如何なされますか?」 「そうさな......」  遮那王は、小さく溜め息をついた。 「近いうちに鎌倉見物にでも伺うとしよう......」    牛若丸が、秋も深まった頃、黄瀬川の陣で頼朝との対面を果たした頃、遮那王も奥州を離れた。とはいえ、軍を率いて......ということでもなく、弁慶とふたり、山伏に身をやつして館をひっそりと出ていった。 「御曹司もあちらにお住まいを移されるのですか?」  と見送りに立った秀衛が問うと、遮那王は、僅かに口を歪めて答えた。 「我れは、鎌倉殿がどのような輩か見に参るだけじゃ。しばらく此の方は留守にする事にはなろうがな.....」 「何処へ参られますのか?」 「平家を狩る.....」  にぃ....と笑った口許に、秀衛は身震いした。ここに来て鎮まっていた魔性が再び眼を覚ましたのだ......と察した。 「まずは、牛若丸.....義経の泣き言を聞いてやらねばな.....」    街道を外れ、山合を飛ぶように走りながら、ふたりは、十日の後に秩父の山にたどり着いた。  山の中の頃合いの良い小屋に身を落ち着けて、遮那王は、弁慶に呟いた。 「泣き言?」 「あれは、純情過ぎる男だ。龍の傲慢さを我が物とした兄の冷酷さを知りはすまい。......あれが期待するような愛情は、頼朝は持ってはおらぬ」 「何故だ?」 「源氏だからだ」  骨肉相食む争いを続けてきた一族だ。肉親の命などにどれ程の愛惜も無い。平家も同じだ。が、むしろ清盛という『平家の血』を持たぬ頭領によって栄え、そして滅ぶ......その事によって、己が氏族に負った『業』からは解放される。 「だから、小松殿......重盛殿は、浄土に行けたのか?」  腑に落ちた様子で、足を拭う弁慶に、遮那王は白い脛を見せつけるように脚をひらめかせて、小さな唇で笑った。 「さぁな......。だが、今頃は肩の荷を降ろして、菩薩の膝元で憩うておいでであろうよ」 「ならば、俺は魔王の膝元に憩わせてもらうとしよう......」  未だに、少なからず遮那王の憐愍を受けている重盛に小さく舌打ちをして、紅く色づいた唇を味わう。何度も誘うように啄みながら、遮那王は逞しい四肢に絡みつき、身を震わせる。 ―俺のものだ。俺だけの......―  弁慶は愛しい『守り本尊』に全身全霊を捧げ、歓喜にうち震える。此の世ならぬ愉悦の淵で魔性が微笑み、己が身を掻き抱くその時、間違いなく弁慶は己れの浄土に居た。ひんやりとした肌をなぞりながら、微かな声で真言を唱える。願わくは、この時が永遠ならんと......。

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