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第23話 鎌倉 二 ~鶴岡八幡~

 その日も、義経すなわち牛若丸はひどく塞ぎ込んでいた。下にも置かぬ平泉での扱いとの雲泥の差。しかも、鶴岡八幡宮の落成にあたっては、大工に褒美として与える馬を引けとまで言われた。 ―これでは家人(家来)同様の扱いではないか......―  勢いづいて、奥州から出てきたものの、これでは秀衛に合わせる顔が無い。いや、それ以上に遮那王に合わせる顔が無い。ちろちろと虚ろに揺れる灯火をじっと見つめる義経の眼には、うっすらと涙が浮かんでいた。 「何を嘆く......」  突然、庭先から零れた声に、義経はぎょっとして辺りを見回した。仄暗い闇の中からふんわりと伽羅の香が漂ってきた。 「遮那王さま......!」  目を凝らせば、枝をはった黒松の影に薄物の被衣がゆらりと揺れ、臈長けた笑みがゆったりとこちらに近寄ってきた。 ―いったい何処から......―  音も気配も無く、唐突に現れた麗人に、平伏しようにも驚きに強張って身体が動かない。ただただ眼を見開く義経の頬に白くしなやかな指が触れた。 「頼朝とは、そういう男じゃ。源氏とはそういう血筋よ」  それ故に骨肉の争いが止まぬ......と紅い唇が囁いた。何故に好き好んで呪わしい血の贄になるか......遮那王は、この純真なばかりの青年が哀れでならなかった。 「お前に言うておくことがある.....」  遮那王は溜め息混じりに囁いた。 「これより先、お前は戦に駆り出されることになろう。だが、案ずることは無い。戦の場にあっては、我れと弁慶がお前を護る。だが......」  ふぅっ......と細い息が頬に触れた。 「ゆめ鎌倉の者どもに油断してはならぬ。お前が信じてよいのは、慧順ただひとり。我らは影にて護るゆえ、日々のお前の善し無し事には関われぬ。......それに、都の者どもはもっと油断ならぬ。心しておけ。人はどのような魑魅魍魎より恐ろしい.......」  それだけ言うと、遮那王は、後退りながら再び闇の中に紛れて見えなくなった。 「遮那王さま......」  茫然と軒先に座り込む義経がふと膝に触れると、何かが指に触れた。 ―笛......―  それは、遮那王が徒然に奏でていた笛、義朝の遺品とて、遮那王が母君から賜ったという『薄墨の笛』だった。 ―遮那王さま......― 『己れこそが、源氏の嫡流たれ.....』との義経への無言の励ましでもあった。 「良いのか?」  望月の下、頼朝の屋敷を忍び出た義経に弁慶が訝しげに尋ねたが、遮那王は、―良い―と小さく笑うだけだった。 「それより、明日は『対面』じゃ。心してかからねばのぅ.....」    翌日、頼朝が建立したばかりの鶴岡八幡宮に詣でようと思い立ったのは、昨晩に見た奇妙な夢のせいだった。  薄闇の中に、男とも女ともつかぬただ美しく臈長けた存在が佇んでいた。身に纏った薄衣ははだけ、淫猥な、けれど高貴な笑みを浮かべて頼朝を見下ろしていた。 ―我れが欲しいか......―  とその存在は紅い唇で囁いた。その瞳は被衣で隠れ、定かには見えなかったが、この世ならぬ者であることは確かだった。 ―そは何者ぞ?―  半ば凍りつき、半ば熱を帯びた身体をもたげ、頼朝は乾いた唇を震わせ、掠れた声で問うた。 ―知りたいか?―  うっすらと口許に浮かぶ笑みはそれが魔性であることを物語っていた。 ―鶴岡八幡にて会みえようぞ...―  硬直する頼朝の唇にふっ......と軽く口づけて、にまっ.....と笑ってその存在は消えた。  心なしか、面差しが牛若丸に似ていたような気がした。 ―まさかな......―  頼朝は頭を振り、胸の中に沸き上がる不吉な影を振り払った。  が、結局のところ、政務を成しながら胸の中に蟠るあの魔性の面影を振り払いきれず、ひとり黄昏始めた鶴岡八幡宮の石段を踏みしめていた。 「どこに、おる」  拝殿に向かい、柏手を打った。頼朝はぐるりを見回し、傍らの銀杏の木に目を走らせ、誰何した。 「出て参れ、妖しめ!」  するり......と影がひとつ動いた。 「妖しとは......つれないお言葉にございますのぅ......兄上」  被衣の裡から覗く面差しは、確かに義経、牛若丸と似通ってはいた。が、まとう気はそれとはおおよそ異なり、妖艷で蠱惑に満ちていた。 「そなた、何者じゃ......。まさか.....」 「我が名は遮那王.....。御身と胤を同じゅうしながら、魔王に捧げられたるもの.....」  頼朝は思わず息を呑んだ。立ち疎くむ頼朝にひらひらと蝶がそよぐように、淡色の水干が近寄ってきた。 「まさか......まことであったのか。では、あの義経は......」 「あれも、義朝が子。我れの対にございます」  血の如き紅い唇が誘うように囁いた。頼朝はごくり.....と生唾を飲み、だが威勢を保って詰問した。 「その『影』が何ゆえに我が前に出ずるか、魔王の子よ」 「そなたの背後の龍、如何ほどのものか知りとうなりましたゆえ......」 「身の程を知れ、魔王の子よ。九頭竜権現の怒りにふれたいか!」 「滅相もなぃ.....」  虚勢を張る頼朝にくすり......と笑って、遮那王は、その胸元に指を触れた。 「我れも龍神の情けにあやかりたく、罷り越したるものにて......」 「情け......と申すか」  頼朝の蛇の眼が、遮那王の金色の眼を見据えた。この世ならぬ眼差しがふたつ、ぶつかり合い、絡み合った。 「面白い......」  頼朝の喉が、くっ......と笑った。 「儂を凋落できると思うなら、挑むが良い。存分に相手を致してやろう」  頼朝の手が、くぃと遮那王の顎にかかり、引き上げた。 「悔やまれますな......」 「その方こそ.....な」  薄暮のうちにふたつの影が重なり、そして鎌倉は不気味なほどの静けさの中に夜陰に沈んでいった。

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