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第25話 上洛前夜~危惧~
「遮那王さま、義仲殿が京に入られました」
牛若丸もとい源義経が遮那王の庵に駆け込んできたのは、木瀬川の対面よりおおよそ三年が経とうとしている秋だった。
「遂に、平家が京から逃げ出したとのことにございます」
「そうか......」
紅潮した頬で眼を輝かせる義経に、遮那王は静かに応えた。だがその面差しは意気揚々たる義経の様とは対象的にひどく暗かった。
「鎌倉殿は面白くは無かろうのぅ......」
意気揚々と義経が庵から立ち去った後、弁慶は山で得てきた獣を捌きながら、遮那王に囁いた。
「おそらくは......な」
遮那王は、机に肘を付き、何やら難し気な面持ちで答えた。
「平家という共通の仇があれば手を組むこともあろうが......」
抜け駆けをされた。その屈辱が頼朝の腹の中には確かにある。
「なれど何故、鎌倉殿は京に押し進まれなかったのだ?」
富士川までは至った。が、そこから反転して、もっと東に引いた鎌倉を拠点とした。
「鎌倉殿の手勢は、坂東武者。数が整わぬうちに平家と当たるのは不利と見たのであろうよ。それに.....」
「ん?」
「鎌倉殿の後ろの龍神どもが力を発することの出来る範囲は限られておる。伊豆箱根の異界より遠く離れてしもうては力が及ばぬ」
「それゆえ、遮那王、お前は武蔵の側に潜んでおるわけか」
「此方なら、三峰の神が護ってくださる。あの忌まわしき蛇体に絡め取られるのは御免じゃ」
弁慶の差し出した椀を両手で押し包むように受け取り、遮那王は一口啜り上げた。
「美味いな......。弁慶、お前は存外に煮炊きが上手い」
「まぁ、長くやっとるからな」
心なし和らいだ表情の遮那王に弁慶も口許を綻ばせた。
鶴岡八幡宮で対面して以来、遮那王は鎌倉に降りることをひどく嫌がる。
―あやつらは、龍神とは名ばかり。既に堕ちきっておる。戦いに果てた輩の血の流るる水に身を浸しておったゆえ、すっかりと血の味をしめてしもうた。―
血に飢えた大蛇が幾たりもとぐろを巻いているような有り様だ、という。
「問題は......」
遮那王は、コトリ......と椀を置き、身を捩るように巻き上がり崩れ落ちる焔を見つめた。
「鎌倉殿の内に巣くう憎悪があやつらと共鳴して力を増幅させていることだ」
「そうだ......」
遮那王は、大きく息を吐いた。
「あの男の中には、凄まじい憎悪が渦巻いている」
源氏を討ち破った清盛への、平家への憎悪。義朝を裏切り丸腰の主人を誅した郎党への憎悪......。
「己のが父である義朝とて、我が母、常磐に溺れて正妻である鎌倉殿の母を蔑ろにした憎しみを抱いておる」
「鎌倉殿の母御は、常磐殿ではないのだったな...」
「そうじゃ。熱田神宮の神官の娘御だったが、我が母によって熱田に逃げ去らねばならなくなったという......」
ぱち....とひときわ大きく薪がはぜた。
「それゆえ、己のが兄弟であっても、常磐御前の子である我れや、今若丸、乙若丸は憎悪の対象でしかないのだ.....哀れなことに牛若丸は、その憎悪を最も強く受けておるのじゃ......気づいてはおらぬが、な」
「何故じゃ?......牛若丸は、常磐御前のお子ではあるまい」
「牛若丸は十一歳になるまで、清盛に育てられている。ある程度の年齢だった今若、乙若と違い、赤子だった牛若丸は父の顔を知らぬ。清盛という云わば仇に慈しまれた、許しがたい存在なのだ。......清盛の胤ではないかと疑いすら抱いておる」
「そうじゃなぁ......」
弁慶は思わず溜め息をついた。どれ程、恋しやと慕っても、頼朝とが罪人として忍従を強いられた二十年の間、牛若丸は清盛に慈しまれ、鞍馬山の僧侶達に愛でられ、奥州でも秀衛に丁重にもてなされていた。その立場の違いが深い憎悪を生んだとしても何ら不思議は無い。
「鎌倉殿......頼朝は牛若丸を弟として認めてはおらぬ。今若丸の義円、乙若丸の頼範とて同じだが、溝はもっと深い......」
頼朝の父、義朝は保元の乱で義仲の父を弑している。兄弟で命を奪い合う.....忌まわしい業が、源氏にはある。
「氏姓など符号に過ぎぬ。権力を相争う化生に血の繋がりなど何になろうか......それが牛若丸には解っておらぬ」
深く溜め息をつく遮那王の肩を弁慶の腕が抱き寄せた。
「で、お前はどうなんだ?」
「どう?......とは?」
怪訝そうな遮那王の顎に手をかけ、唇を啄む。
「鎌倉殿は、お前が常磐御前の子と知っているのか?」
「知っておる。......常磐が魔物と契った忌まわしき産物じゃと。それゆえ鎌倉殿に、娼婦の子に相応しき辱しめを受け、責め苛まれねばならぬのじゃと抜かしおったわ。......まぁ、魔物と契ったはあながち間違ってはおらぬが、牛若丸と双子じゃと思われておる」
「なる程......」
弁慶は半ば苦笑しつつ、しなやかな肢体の求めるままに肌を合わせながら、問うた。
「では、鎌倉殿もお前の贄となるを承知なのか?」
「まさか......」
胸元の小さな突起を吸い上げると細い喉がせり上がり、白い腕が弁慶の頭を掻き抱いた。
「あれはもぅ、龍に喰らわれておる。人の御霊など僅かにしか残っておらぬ。それゆえ、こうして身体を重ねたとて、なんの益もない」
度々、頼朝に召し出される度に不快感に苛まれて、平素よりも激しく弁慶を求めるのは、逆に気を穢されるからだ......と言う。
「穢れは好まぬが、牛若丸や鎌倉の輩の様子も見ておかねばならぬゆえ......お前には世話をかける」
「俺で気が清まるのか?......我れは鬼ぞ」
深く繋がり、弁慶の背に爪を立てて喘ぐ耳朶をかりり...と噛むと甘い吐息が一層甘く耳を擽る。
「清まる。鬼だからこそ、良い......お前の気は自然そのもの。鬼の気とは言うが、お前の太古の気は大地から噴き上がる熔岩のように熱く、混じり物を持たぬ。故にこの上無い癒しとなるのじゃ。」
「ならば良い...」
練り絹の如き艶を帯びた肌を吸われ、紅い花を散らしながら、遮那王は愉悦に身を震わせる。何もかもを手放して、弁慶の温もりの中にただただ揺蕩う。
零れ落ちる囁きを抱き締め、弁慶もまた遮那王の与える悦楽に満たされ、この世ならぬ者達の、彼らだけの交悦にただ二人、ゆったりと身を任せる。
―無窮.....という言葉があるなら―
この一時より他にあろうか.....と弁慶は半ば意識を手放し、縋りつく細い身体をひしと抱き締めるのだった。
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