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第29話 平家討伐~鵯越え~

 義仲の影が払拭された京において、次に向かう敵は、他ならぬ平家であった。福原の都を中心に西国を握る平家は、清盛の遺言のもと源氏との雌雄を決するべく、一ノ谷に砦を築いていた。  範頼、義経兄弟に課されたのは、この一ノ谷の攻略であった。  昆陽から住吉、大道を進む範頼とは別に山越えから明石垂水の浜に至る山道を義経一行は進んでいた。  平家の陣の背後からこれに迫り、砦から出でたところを範頼の大軍が迎え撃つ。策としては、そう無体なものでは無かった。......が、問題はその地形にあった。  砦の背後は切り立った崖になっており、人はおろか馬さえも降りることはできない。ひょうひょうと谷底から吹く風に誰もが身震いした。  俗に言う鵯越の逆落としである。(実際には鵯越えよりやや西寄り、一ノ谷の後背地にあたる鉄拐山(てっかいざん)の岩肌を駆け降りたとされる、念のため) 「御曹司、如何いたしますか?」  梶原景時が冷ややかに問う。戦手練れの坂東武者である。先の義仲追討に勝利したとは言え、義経自身の力量を信頼しているわけではない。  しかも、魔王の子、遮那王の存在を知る数少ないひとりでもある。 ―読みが正しければ......―  遮那王が何らかの形で加護している。頼朝からの内々の命を腹の中で思い出した。 ―平家に向いての戦の場で加護させるのは構わぬ。が、平家討伐が済み次第、遮那王と義経の仲を絶て― ―何故にございますか?― と問う景時に、頼朝は冷ややかな眼差しを向けて言い放った。 ―武家の頭領は、この儂、頼朝じゃ。義経は駒に過ぎぬ。......駒に過ぎた加護を持たせては後々の禍根となる―  それでなくても、朝廷や都は頼朝ではなく義経を贔屓にしている。一歩下がって、何とか頼朝を押し立てようという発想は、義経には無い。それだけ青い。無我夢中なのだ。 「如何に攻めまするか?」 宵闇に辺りが閉ざされ、互いの顔も良く見えない。義経の唇が静かに動いた。 「奇襲をかける」  景時は、思わず言葉を失した。いつの間に入れ替わったのか、平素とは全く異なる冷ややかで淡々とした口調で義経は言った。 「この崖を駆け降りる」  馬鞭で指す先には白い陣幕が仄かに浮かび上がって見える。篝火に照されて、赤い旗が寒風にはためいているのが見える。 「しかし、馬が!.....馬でここを駆けるなど......」 「鹿は降りると聞いた。.......なれば、鹿も四足、馬も四足、鹿に降りられて、馬に降りられぬ筈はあるまい」  義経の唇がにやりと笑み、金色の瞳がキラリと光ったように、景時には思えた。 「行くぞ!......我れに続け!」  義経の馬鞭が高々と掲げられ、次の瞬間、大兜と七枚縅の色鮮やかな鎧が崖下に身を踊らせていた。その背後に僧形の巨漢の黒い影、そして義経の手勢三十騎ばかりがこれに続いた。  呆気に取られる景時の面前で、緋糸縅が次々と敵を薙ぎ倒していく。景時は、怖気を振り払い、自身も部下とともに崖を駆け降りた。 ―まさに魔王、鬼神の所業よな......―  牛若丸と入れ替わったであろう遮那王の義経は敵を斬り伏せるに一切の躊躇いを見せない。血飛沫を浴び、断末魔の中を嬉々として斬り進んでいく。  夜が白々と開ける頃には、早々と戦の大勢は決していた。 「お見事にございます」  景時が恭しく駆け寄ると、義経は、向かってくる平氏の残党を不器用に薙ぎ払いながら、景時に声をかけた。 「戦は決したのか......?」 「大勝利にございます」  答えながら、景時は目の前の義経が、いつもの人好きのする大人しげな若武者......牛若丸の義経に戻っているのを確かめた。 ―いったい、いつの間に......―  問うたところで、この様子では覚えてはいないだろう。景時は、ただ戦の成り行きをつぶさに頼朝に報告するよう進言して側を離れた。 「義経、大丈夫か?」  戦況もやや落ち着いた頃、慧順が経几に呆然と座す義経に声をかけた。 「あの崖を駆け降りたとはまことか?」 「まことらしい....覚えていないのか?」  義経は頭を小さく振った。 「梶原殿がふと顔を背けた瞬間、何やら闇の中に吸い込まれて......朝陽の光で我れに還ったら、戦場の只中にいた。累々たる屍の最中に馬とともにあった。」 「そうか、そなたもか......」 「慧順、いや弁慶?」 「儂も闇の中に引き摺り込まれて......気づけば、崖下の洞の中にいた」  ふたりはそれきり口をつぐんだ。言葉にしてはならない、言葉にならない恐ろしさがふたりを包んでいた。 ―――――――――― 「ずいぶんと楽しそうじゃったのう......」 「お前もな......」  翻って、軍勢の通り過ぎた生田の森の奥深く、血にまみれた身体を湧水に浄める山法師のごとき巨躯の男と手弱女のごとき優し気な青年の姿があった。 「あの若武者には気の毒なことをしたが......」 「敦盛か......」  清盛の孫、平敦盛は深手を負い熊谷直実に自らして討たれた。若干十六歳だった。 「戦の世に、武士に生まるるというは、そういうことよ。あたら若い生命が、さしたる咎も無く散っていく.....。そういう世にしてしもうたは、人の欲。修羅も自らが負うた業よ」  ふぅ......と山法師の口から大きな息が漏れた。 「時に遮那王、俺の猛りがいまだ収まらぬのだが.....」  青年の視線が、僧の指さす先をチラと見て、くすり......と笑みを漏らした。 「わかっておる。存分に放つが良いぞ。.....あれらが去ってから、な」  見下ろす山の端には、決戦に遅れた範頼軍とともに引き上げていく、義経の大兜が日の光を散らして輝いていた。

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