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第33話 平家討伐~屋島(一)~

明けて文治元年(一一八五年) 二月  前年の八月に平家追討のために鎌倉を出発した範頼の軍がようやく一月に九州に辿り着いた。  ところが、戦況が甚だ思わしくない。海路‐陸路をほぼ完全に押さえ込まれ、兵糧‐船‐兵力の確保もままならぬまま、じりじりと平家の軍に押されている状態である。 ―仕方ない......―  どれ程、大軍を持たせても、凡庸は凡庸。内に怒りも不快も抱えながらも、頼朝は義経に出陣を命じた。 ―まずは平家を討つ―  後の始末はどうにでもできる。頼朝が任官‐昇殿を快く思っていないことは風聞で伝わっているはずだ。死に物狂いで勝利して、その歓心を取り戻そうとするだろう。 ―あるいは......―  平家との戦いで討ち死にするなら、それも良し......と踏んでいた。義経が亡き者になっても、平家さえ滅びようなら、さしたる痛手ではない。何より朝廷の勝手な思惑に苦々しい思いをする必要はなくなる。 ―だが......―    平家は滅ぼさねばならぬ。 「誰ぞ、京に使いを.....」  近習のひとりが頼朝の前に走出でる。 「京の誰に遣わすので......?」  そこで、頼朝は言葉に窮した。遮那王が居るとすれば、鞍馬だ。だが、それ以前に滅多な者に遮那王の存在を知らしめるわけにはいかない。  首を捻る近習を前に、頼朝は言葉を躊躇っていた。その時、すうっ......と一条の光が眼前を行き過ぎた。 「蛍?」  真冬である。蛍などいようはずも無い。光の導く先に眼を移すと、庭先に仄かな淡い光が宿るのが見えた。 ―遮那王......?―  聞こえるか聞こえないかの幽かな呟きが頼朝の口許から漏れた......と同時に、何処からかふわりと一陣、風が吹いた。 ―我れなら此処におる―  誰もいないはずの寝所にぽぅ......と灯りが灯った。頼朝は近習を下がらせ、用心深くそちらの方に歩み寄った。  几帳越しに朧ろな影がゆらりと揺れた。 「遮那王か?」  誰何はするが答えは無い。  やにわに刀を抜き、ばさり......と几帳を両断すると、白い忌衣に身を包んだすんなりとした立ち姿がこちらをじっと見ていた。 「平家を滅ぼせ。我が父が怨念を晴らせ。首尾良く事なれば、なんなりと褒美を取らせる」  叫ぶように言いつのり、ずかずかと閨に踏み入れば、その姿は掻き消すように消え失せ、冷ややかな声音だけが残った。 「何なりと......のぅ。憶えておこう」 ――――――――――――――――― 「遮那王さま、お暇乞いにまいりました」  まだ霧も深い早朝、遮那王の堂の前に大兜‐甲冑に弓を携えた戦姿の義経は固く口許を引き結び、深く頭を下げた。 「私はこれより平家の根城、屋島に参ります。此度は......私自ら死力を尽くしとうございます。ご加勢無用にて、此方にて成仏を祈っていただきたい」  朗々と高らかに告げ、鋼の摩れ合う無骨な音を山の静謐に刻み込むように、義経は鞍馬の山道を何度も何度も振り返り降りていった。 「あやつは死ぬるつもりかのぅ......」  深い霧に隠れ、鬱蒼とした木立の狭間から見送る弁慶の唇が深い吐息を吐いた。 「おそらくな......」  くるりと背を向けた遮那王は露に濡れるを構う事もなく笹を踏み分けていく。冬枯れた草々が怒りとも哀しみともつかぬ遮那王の引き吊れた胸内のままにざわめき乱れて虚空を掻く音だけが、鞍馬の樹叢を揺らしていた。 「良いのか......?」  ようやっと躊躇いがちに尋ねる弁慶に振り向きもせず、固く凍りついた声がほつり...と告げた。 「弥山へ行く」  「弥山?.....厳島か?!」  ゆっくりと頭が動き、黒髪がさらりと鳴った。 「その前に寄らねばならぬところがある.....」

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