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第35話 平家討伐~壇之浦(一)~

 頼朝の遣わした梶原景時の兵が屋島に着いたのは、戦の終結から遅れること僅か一日だった。が景時はおおいに面目を失した。  多くの人々の嘲りもあったが、何より、 ―遮那王の関与を、見定めよ― という頼朝の命を果たせなかった。確実に関与していたであろうことは疑いようもないが、それを証しだてるものは何も無い。   ―まぁ、切り札は、ある。― 景時は矢羽と盾とが無数に波間に漂う瀬戸内の海を見つめながら、密かにほくそ笑んだ。   「問題は、神器と帝であろうのぅ......」  遮那王は弥山の窟の中、弁慶の膝に頭を預けて呟いた。 「神器か......」  弁慶の武骨な手が似合わぬ蒔絵の櫛を遮那王の髪に滑らせた。潮風のきつい海上の島だ。弁慶は湧水を見つけて、清水を得ると、夕暮れ近い頃になると水を汲み上げては遮那王の髪を洗って潮を落とし、平家の女官が落としていったであろう櫛で遮那王の髪を漉き上げるのだ。 ―我れは女子ではない。そのような事をせずとも...― といささか不本意な顔の遮那王に真剣な眼差しで乞うのだ。 ―俺がやりたいんだ。やらせておいてくれ.....―  仕方なしに、弁慶の膝に頭を預け、しばしその意に任せるのが慣いになっていた。それが、弁慶にとって夜毎に身体を合わせても鎮まらない猛りを抑えるための所作であることを暗に気づいていたからだ。   ―”その日”が近いことは、わかっている―  遠からず、平家との最後の決戦の日が来る。 それはまた、遮那王と弁慶の日々の終わりを告げるものでもある筈だった。遮那王は平家を滅ぼすために召還された。 ―だが......―  弁慶は波打つ黒髪に瀬戸内の潮の流れを思いながら、櫛梳る。 ―魔王尊が、早池峰の神が我が祈願を聞き届けてくれたなら......―  遮那王が褥に眠る間に、夜明け前に魔王殿に通い、願い続けた。あの夜、仲秋の望月の夜、祈願は受け入れられた筈......だった。が、それはまた別な形での遮那王との別れにもなる。  弁慶の頬を、一筋、涙が伝った。 「帝は...海に沈む」  ほつり......と遮那王が呟いた。   「剣も、鎌倉の者にはやらぬ」 「なんと、帝は幼子ではないか。それなのに.....」  弁慶はあまりのことに呻くように呟いた。平家に擁されている先の中宮徳子の皇子、安徳帝はまだ僅か五歳だ。 「運命(さだめ)じゃ......」  遮那王は、くるりと身体を返して焚き火の焔を見つめた。うねるように逆巻く炎は、運命に必死に抗おうとする人の生命のそれのようであった。 「我れはあれを助けたかった。だが、やはり運命(さだめ)は変えられなんだ......」 「牛若丸のことか?」  膝の上の遮那王の頭が微かに揺れた。 「あれが生きる運命(さだめ)は、元は我れが生きるべき運命(さだめ)であった。......我れが魔王尊への捧げ物となり人ならぬ身となったが故に”代わり”に我れの生を生きねばならなくなった.....」  遮那王の声が森閑とした闇に響く。 「ならば、遮那王、お前が人であったなら、牛若丸はどのような生を生きる運命(さだめ)だったのだ?」 「わからん......そは尋ねたこともない」  遮那王は静かに身を起こし、頭を振った。 「我れは、生まれ落ちた時、既に魔物であったゆえ...な」    遮那王の言葉どおり、程なく源氏と平家は壇之浦で最終決戦の日を迎えた。  ふたりは、両軍入り乱れる中で、誰それと誰何する余地の無い戦闘の中で刃を奮っていた。が、遮那王の眼が遠くで奮闘する義経の姿を常に窺っていることに、弁慶は気づいた。  怪力の平教経に捕まりそうになった義経を眼にした遮那王の眼が爛とこの世ならぬ輝きを放ち、ちょうど伸べられた手が義経の首根っこを掴むように動き、そうして八艘ほど離れた味方の舟にぽぅ...んと投げ入れたのを見た。 ―優しい兄上じゃのう......―  弁慶はこっそり苦笑しながら、大薙刀を奮い、遮那王に近づこうとする敵を薙ぎ払い続けた。  そうこうしているうちに、誰かが、 「帝が...!」   と叫ぶ声が聞こえた。まさに幼帝を抱えた祖母の尼が海中に身を踊らせるその瞬間だった。 「遮那王...!」  省みる遮那王の表情にも眼にも一寸の揺らぎも無かった。続いて、神器を抱えた平家の女官達が次々に海に身を投げていった。 「構うな......」  遮那王は言って、平家の侍達の御霊を狩り続けた。大将の平知盛が血まみれの姿で錨を担いで入水した姿を見届けると、ふっ.....と笑い一声叫んだ。 「退くぞ、弁慶」     

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