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第36話 平家討伐~壇之浦(二)~

 夕刻には戦の大勢がつき、それぞれの舟が岸辺に戻った。  波間には折れた矢羽、盾板、様々な色合いの千切れた縅が辺り埋め尽くさんばかりに漂い、その水面は流された夥しい血で真っ赤に染まっていた。  深夜に至り、丑三つ時の頃、その血生臭い静寂の中に一艘の小舟が漂うように波間に浮かんでいた。漕ぎ手は弁慶。舟板には真っ白な忌衣の遮那王が潮風に髪をなびかせて立っていた。 「さて......始めるか」  遮那王の手が何やら印を結び、口許から真言のような呟きが洩れ出でた。しばしの時が流れ、波間からぽかり......と錦の袋が浮かび上がった。 「拾え.....」 と遮那王の囁くままに掬い上げるとずしりと重い。 「こ、これは......」 と見上げると遮那王が小声で厳しく制した。 「まだだ......」  再び印を結び、先ほどよりもなお厳しく真言を唱え続けると、今度は小さな背が波間に浮かんだ。 「拾い上げよ......」  楷を用いて掬い上げると、幼い子供の骸だった。息は既に無い。 「引き揚げるぞ.....」  弁慶の漕ぐ舟は、子供の骸と錦の袋を乗せて、一路、弥山へと向かった。舟の中で遮那王が既に息絶えた子どもを抱え、何やら呟き続ける声を背中に聞きながら、弁慶は一心に櫓を漕ぎ続けた。  宮島の裏手に舟を着けた頃には、既に夜が明けていたが、遮那王が結界を張っているため、誰も見咎める者はいない。  舟を繋ぎ、弁慶は子供の骸を担ぎ、錦の袋を抱えて遮那王の後ろに続いた。途中、ふと妙なことに気づいた。 「なぁ、遮那王.....」 「なんじゃ?」 「この骸の童、息をしておるのではないか?」  背負っている弁慶の首筋に微かに風のようなものが当たるのだ。それに、力の抜けきっているはずの身体がぴくりぴくりと震えた気がする。 「あぁ...魂魄を呼び返した」  遮那王は事も無げに言うと、弁慶に窟の筵の上に童の身体を横たえさせた。見ると、水に浸かっていたわりには浮腫みが少ない。 「海豚どもにな、岩場に潜ませていたのよ。背に負うてな、我れが呼ぶまで人の来ない入江に隠すように申しておいた」 「やれ、手の込んだことよ......そこまで牛若丸を庇うか、兄上。」  揶揄すると、遮那王の金色の瞳が冷たく弁慶を見た。 「牛若のために救うたのではない.....」  焚き火の火に暖まったのか、童がううん......と身動ぎをした。 「早池峰の神への手土産よ」  遮那王は、にかっ......と笑うと童の額に指を当てた。するり......とそこから何かが抜け、鏡に吸い込まれた。 「何だ?」 「この童に宿した魄、歴代の天皇の分けた御魂だ。早池峰の神のご所望故な」 「なんと.....」  弁慶は言葉を失った。 「ではこの童は再び死ぬるのか?」 「いや.....」  遮那王は小さく首を振った。 「魂は中に戻したゆえ、魄をどこぞより招けばよい。此の近くで無くなった幼子の魄を入れる。いずれ、記憶は無くなるが、大事あるまい」 「そうか........」  弁慶はほうっ.....と息をついた。    見れば、童はむくりと起き上がり、あたりをキョロキョロと見回している。 「ととさん?...かかさん?」  その声に弁慶は一瞬身を竦めた。 「この童には、本当になんの記憶も無いのか...?」 「無い」 「そ.......うか...」  弁慶は童に歩み寄り、ぎゅ...とその頭を抱いた。 「安心いたせ。小僧。我らが親御を見つけてやろうゆえな......」 「弁慶、お前......」  遮那王が招いた魄は、かつて過ちから弁慶が殺めてしまった『我が子』だった。記憶を消し、再び親子としてやり直せるよう、招いたのだ。 「遮那王、お前の情けは有り難い。だが、やはり俺は鬼だ。お前に喰らわれるための贄だ。......人の親にはなれぬ」  弁慶の頬に一筋の滴が伝った。 「だが、有り難い。今度こそ、この子が幸せになれる親御を共に探してくれるか?」  遮那王は、しばし戸惑いの表情を見せたが、やがてこくりと頷いた。 「ならば、急ごう。早池峰に戻る」 「これは?」 「剣だ。古えの神の御宝であった。今こそその手に戻す」  遮那王はキラリと眼を輝かせて言った。 「頼朝風情に遣るわけにはいかん。牛若丸の生命を賭けても、渡せぬのじゃ」 「ならば、牛若丸はどうなる......」  ふっと眉根を曇らせる弁慶に遮那王は振り切るように言った。 「あっても無くても.....あれの宿命(さだめ)が変わるわけではない」  善き物を献じても、所詮は、一時の情けを得るに過ぎぬ.......遮那王は急ぎ奥州へと脚を早めた。

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