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第39話 断絶 ~腰越状(二)~

 義経は失意のうちに京へ向けて発った。  その夜も深く更けた頃、頼朝は、寝所に酒を持たせた。瓶子を抱え、かわらけを幾重にも重ね、庭先に群れ飛ぶ蛍を睨み付けていた。 「悔しいか......さぞ、悔しいかろうのぅ。.....だが、お前達の悲嘆など俺の味わってきた屈辱になど及びもせぬわ」  りーん、と虫の音が応えた。ふっ......と松の木の影に淡色の袖が覗いた。頼朝は、はっ......と顔を上げた。 「遮那王か.....」    被布がほんの少し上げられ、月よりも白い面が覗いた。いつになく硬い表情で、頼朝を見据えていた。 「如何がした?......何やら不機嫌なようだが」  かわらけを突き出す手先をじろりと一瞥し、紅い唇が吐き捨てる。 「そなたをひたすら慕うて働いてきた弟じゃというに、一目くらい会うてやることも出来ぬのか」 「義経か......」  頼朝は、ふん...と鼻先で笑ってかわらけを投げた。  「あやつは儂の則を破った。当然の沙汰じゃ」 「ならば、会うて面と向かって告げたらよかろう」     不機嫌極まりない声音の遮那王に、頼朝は平然と応えた。 「鎌倉に入れれば、あやつに同情して肩を持つやつも出る。余計な手間がかかる」    「あれだけの働きを成せば皆、認めぬわけにはいくまい。情も湧こう。お前は何も思わぬのか?」   呆れ果てた......と言わんばかりの遮那王をせせら笑うように頼朝が言い放った。 「あぁ、良き働きであったわ。実によく出来た『駒』であった。だが、過ぎた『駒』は目障りでな。......儂の示す形にそぐわぬ『駒』は要らぬ」   「牛若は......義経は、兄としてのそなたに褒めて欲しゅうて生命を賭けておったというに.....」     遮那王の眼尻がきりりと釣り上った。それを鼻先であしらうように、頼朝は口許を歪めた。 「さてのぅ.....まことに弟なのか知れたものではないわ。笛ひとつなれば、盗んだとて手に入る」 「さても醜き男よのぅ......」  金色の瞳が月の明かりに爛とした光を放った。頼朝は瞬時、身を強張らせ、だが振り切るように詰め寄った。 「そのようなことはどうでも良い。剣は、帝はどうした!......お前の魔力があれば容易く手に入ったはずだ」  頼朝の怒気を含んだ声に、ふっ.....と艶めいた唇が嗤った。 「そのような事は頼まれた憶えはない......」 「義経に命じた。知らぬとでも言うのか!」  頼朝は庭先に駆け降り、その手をぐい...と掴んだ、かと思えば、するりと白い指は掌を擦り抜け、ふわりと身をかわす。 「知らぬなぁ......」 「何だと...?!」 「あれは、義経は必死でお前の為に戦こうていた。自らの力で......な。それゆえ、我れはいらぬ手出しは止めた」  遮那王は小さく息を吐き、頼朝よりもなお冷たい口調で迫った。 「頼朝よ、お前は近しき者の生命も心も踏み台にし、踏みにじって......かようにしてまで、何を望む?!」  挑むが如きの遮那王に頼朝は渾身から振り絞るように雄叫んだ。 「新しき世じゃ。新しき世を造るためには、古き慣いになど情になどかまけておれぬ」  頼朝の眼が爛と昏い光を帯びる。心なしか髪が逆立って見え、全身を硬くひび割れた鱗のような気が包んでいる。頼朝が怨嗟のうちに呼び寄せ身の守りとした古く荒ぶる龍が重なって、遮那王を睨みつけている。 「ほぅ......新しき世さえ出来れば、他には何も要らぬというか」  遮那王は尚も挑発するように、頼朝に、頼朝の龍に投げ掛ける。 「そうだ」  頼朝は、ずぃ......と今一歩、足を進めた。 「義経を救いたくば、剣をこれに持ってまいれ」   眼が遮那王をひたと見据えている。じりじりと近づき、一気にその手に捕らえようとしているのが見て取れた。 「帝は良いのか?」  遮那王の唇がにやりと嗤った。頼朝の龍が唸るように応える。 「死者は生き返らぬ」 「確かに......な」  距離を詰め、頼朝が腕がぐ...と腕を伸ばした。遮那王は、す......と今一度身をかわし、頼朝をねめつけた。 「触れるな......」 「なんじゃと?!」 「我れは見苦しきものは好かぬ...」  ふわりと薄い浅黄の袖が翻り、揺れた。そして、次の瞬間には艶いたその姿は忽然と消えていた。 「おのれ、妖物め......!」  頼朝は地団駄を踏み、辺りを探させたが、何処にもその気配すら無かった。  頼朝はぎりぎりと歯噛みしつつ、今一度庭を見回した。  ―儂に情けを捨てさせたのは、お前だ。遮那王。 お前までもが、あやつを......―  既に虫の音も絶え、ただ月だけが、欠け始めた姿を残していた。

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