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第40話 訣別~景時の来京~
頼朝との対面も叶わぬままに京に戻った義経は失意の最中にいた。
食事も満足に喉を通らぬ日々の中で思い起こされるのは、奥州の館での穏やかな暮らしであり、兄の挙兵に心踊らせ、矢も楯もたまらず駆けつけた胸の高鳴りだった。
―私は、いったい何の為に....―
秀衞の制止を振り切って、何ものをも省みずに木瀬川の陣を目指したのは、何の為だったのだろうか。
それは、唯ひとつ兄の呼び掛けに応えるためだった。血を分けた兄に会いたかった。木瀬川で手を取り合って泣いたあの日、頼朝は微笑んでいた。義経が見た唯一の『兄の笑顔』だった。
「九郎様は、お立場を違えてしまわれた」
頼朝の名代として、京の義経の元に遣わされた梶原景時は如何にも峻厳な様で憔悴しきった義経を一瞥して言った。
「ご兄弟とは言え、九郎様はあくまでも頼朝さまのご指示に従わねばならないお立場。御身の一存で沙汰を下されるはもってのほか。頼朝さまの御許しもなく院に拝謁なさるなど言語道断にございます」
厳しく責め立てる景時の前で義経の眼差しは虚ろだった。激しく傷つき、何もかも失ったかのような義経の有り様は、ただただ哀れだった。叔父の行家を討伐するようにとの言葉にも、
「体調が思わしくないので、回復したら陣立てをいたします」
と応じるのが精一杯だった。
だが、景時はその弱りきった義経に尚も追い討ちをかけるように詰め寄った。
「殿は、ひどくお怒りにございます。お兄上のお怒りを静めたいと真にお思いでございますなら、九郎様の誠意をお見せなさいませ」
「誠意....?」
―命を賭け、身を挺して平家との戦を死に物狂いで戦い抜き、勝利をもぎ取った。それでさえも兄上には不実だと仰せられるのか―
義経はあまりの事に言葉を失っていた。
「ならば、どうすれば良いのだ。今ここで頭を丸めて全てを投げ出して、仏門に入れとでも仰せられるのか?」
「そうではありませぬ」
苦しさに呻く義経を景時は冷ややかに見下ろして、口許を歪めた。
「我が殿がお求めの物を差し出されれば良ろしいのです」
「求める......もの?」
「まずは神器.....草薙の剣を取り戻すことです」
「無体な.......あれは水底に沈んだ。探しだして引き上げるなど到底できようがない」
力なく首を振る義経に景時は、容赦なく冷ややかな言葉を投げつけた。
「お出来になりましょう。あのお方なら.....」
「あのお方?」
「遮那王さまにございます。この世ならぬ力をお持ちのあのお方なれば、海中より剣の一振りを掬い上げるなど造作も無いことにございましょう」
―義経を追い詰め、遮那王に草薙の剣を引き上げさせよ。遮那王もろとも我が手に入れるのだ。逃さぬよう文覚上人に結界を張らせ、我が手にて魔王を飼うてやろうぞ―
頼朝が何時よりも昏くその目を光らせ、くくっと喉を鳴らしていた様を思い出し、景時は密かに身震いした。
―義経のためなら、遮那王も我れに従うであろう―
頼朝はそう踏んでいた。そして自分の赦しを得るためなら、義経は遮那王に泣きつくであろう....と。景時もそう思っていた。
だが、景時の言葉に、義経はそれまで項垂れていた頭をくっ.....と上げ、目の前の鎌倉の執事を睨み付けた。
「それは......叶いますまい」
「なんと......」
景時は予想外の義経の返答に顔をしかめた。
「殿のご命令にございますぞ」
「あのお方は人の世の方ではない。私などが命惜しさに縋ろうとて、聞き届けたりはせぬ」
義経は膝元でぐっと拳を握りしめ、はっきりと拒絶を示した。
「偽りを仰せになるな。戦にて御身を度々、加護なされたを知らぬとでもお思いか?」
詰め寄る景時に、義経は喉で小さく笑い、はっきりと言いきった。
「遮那王様は、御自ら平家という贄を狩るために、我が身を使われただけじゃ。それに今いずこにおわすか、私にはわからぬ」
「京には居らぬと申されるか?」
「居るか居らぬかも、知らぬと申し上げておる」
窶れきっていながら、義経の態度は固かった。
―守らねば......―
心の中で義経は決めていた。
―あの方だけは、守る―
それが、義経の内に残された最期の意地であり、望みだった。
―後悔めされますな―
景時が捨て台詞を残して去った後、義経は崩折れるように床に突っ伏した。
そして、この先の試練を覚悟した。
さわさわと風が通り抜けた。思いがけず胸の中がすっきりしていたことに笑った。
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