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3-僕を壊して

闇の中、月光を受けて白く浮かぶ清比古のふくよかな頬を指でなぞる。 あの生き人形の、冷たい頬にふれてみたいと、ずっと思っていた。 それと同じように、清比古の頬にもふれたいと願っていたのだと、俺は初めて気づいた。 「嫌だ!」 清比古が頬をなでる手を弾いて顔を覆った。 「あ……すまない」 想像していなかった拒絶に手が震える。 ごく親しい学友の、しかも男の頬にふれただけだ。にも関わらず、自分がひどく背徳的な行いに及んでしまったように感じた。 「ランプを灯してくれないか」 俺は慌てて布団から下り、木の小さな(つくえ)の上にあったランプをつけた。 「その……不躾だった。もう勝手にふれるようなことはしない」 布団の中の清比古を振り返ることができず、徐々に明るくなっていくガラスの中の火をじっと見つめる。 先ほどまで、不思議と感じることがなかったシンとした寒気に、寝間着の躰が冷えていった。 「ふれられたことが嫌だったわけじゃないんだ。闇で彬の顔が見えず、怖くて……」 背中に温もりを感じた。 俺の腰に清比古の腕が周り、背中には先ほどふれた頬が押し当てられていた。 「震えている。寒いだろう布団に戻ろう」 きちんと並べられていた布団の端を重ね、冷えた躰を寄せ、温もりを分かち合う。 ほの明かりの中、清比古の手が俺の手をつかみ、自らの頬に招いた。 「僕に好きにふれていい。僕がバラバラにして殺してと願ったんだから。けど、ふれているのが君だとはっきりとわからないのは嫌なんだ」 「バラバラにと言われても、どうすればいいか分からないよ。清比古は俺にどうされたいんだ」 「……どう……されたいんだろう。彬にだったら本当に殺されても構わないんだ。けどそれじゃ君の将来が駄目になるからね。今の自分を壊せるなら僕はどうなってもいい」 清比古が俺の手に頬をすりつける。 俺は頬をなで、耳の後ろをなで、細いうなじをなでた。 今、俺の手の中に清比古の命がある。 この温もりを失うなど到底考えられない。 けれど清比古を壊すという事は、今の清比古が居なくなるという事じゃないのか? 俺が再び清比古の心を組み立てたとして、その清比古を今のように友と思えるのだろうか。 結局この晩はどうすべきか答えを出すことができず、俺は温もりを分け合う清比古のすべらかな頬を朝までなで続けたのだった。 次の日、俺は教授に清比古の進学について尋ねた。 どうやら陸軍士官学校への進学を希望したのは本当のことのようだった。 しかし、教授陣はふざけた冗談を言うものだと誰も本気にせず、帝大へ進学するのか故郷へ戻り公務員となるのか早くはっきりしろと、何度も説教をしたようだった。 そして故郷に戻る気がないとわかった時点で、ならば帝大受験をするのだと皆そう理解した。 実際のところ陸軍士官学校は受験するまでもなく体格で不合格で、優秀な生徒として故郷の支援をいただいて高等学校に通っているのだから、就職をしないのならばより上を目指し進学するのは当たり前と言えた。 昨晩『殺して』などと衝撃的なことを言った清比古は、教室では普段と変わらぬ様子だった。 授業が終わり、寮に戻っても下級生の面倒をよくみて、勉強も丁寧に教えてやるいつもの清比古だ。 もしかしたらあれは夢だったのではないか、そんな風に自分を疑った。 自習室での勉強を終えれば、六人部屋に戻り二人きり。 消灯時間はすぐだった。 部屋の明かりを消し、板敷きに几帳面に揃えた布団にいつものように潜り込む。 清比古は布団から少し離れた板敷に灯のついたランプを置いた。 普段ない行動を俺は不思議に思った。 「闇で彬の顔が見えないのは嫌なんだ」 そう言って綺麗に揃えていた布団の端を少し重ね合わせ、俺の布団の中に半身を滑り込ませてきた。 直接肌がふれ合うことはない。けれど清比古の温もりが伝わってくる。 硬い枕に頭を乗せ、置物のように綺麗に仰向けになった清比古の顔がゆっくり俺の方を向いた。 「僕は人になりたい」 昨夜自らを『箱の中に押し込められた人形だ』と表現したのを受けてのことだろう。 しかし優しく控えめな性格ではあるものの、彼をおのれを持たぬ人形のようだと思った事などない。 指で長い睫毛にふれればパチリと閉じる。 その儚げな震えに『命』を感じた。 今の清比古をバラバラにして殺す。 優しい清比古がいなくなる。 そんな事は考えたくない。 「清比古のどこが人形だっていうんだ。共に学び、議論も戦わせた。人形にそんなことができる筈ない」 清比古の、か細い首に手を這わせ脈を感じる。 トク、トク、トクン……。 滑らかできめ細やかな肌の下で、一定の拍動を持って血管が俺の指を押し上げてくる。 俺の手に清比古の手が重なった。 視線が絡み、清比古が薄く微笑む。 細い指が俺の指をなでていく。 「……っぐ」 うめき声にビクリと手が震えた。 無意識のうちに首にあった手に力が入り、清比古の喉仏を押し上げていたのだ。 ケホケホと清比古が咳き込む。 端に涙の滲んだ目にランプの灯りが揺れた。 「ああ……」 満足げなため息とともに、清比古が俺の手を再び首に導く。 「首を絞めずとも頸動脈(けいどうみゃく)の上に手を置いているだけでいいんだよ」 確かにその方が苦しまずに逝ける。 眠るように亡くなった清比古は、あの生き人形より、ずっと美しいに違いない。 清比古が自分を人形だと形容する本当の理由も、清比古を壊す方法も、そして再び清比古を組み立てる方法も見当がつかないままだ。 にも関わらず、俺の手の中に清比古の命があるという事に静かに高揚していた。

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