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第60話
若い男は、広瀬にナイフを取られた後は、精魂尽き果てた様子でがっくり膝をつき、動けなくなった。
緊張の糸がぷっつり途切れた様子だった。
広瀬は、その場で彼を立ち上がらせ、ほとんど引きずるように移動した。
そして、すぐに目に留まった全国チェーンのセルフのコーヒーショップに入った。
男が疲れ切っていたのと、周囲の目も気になったからだ。
路上でへたり込んでいる男と話していて誰かに通報されては困る。
まずは席に座って落ち着かせて話をする必要があった。
若い男は飲み物を選ぶ余裕もなさそうだったので、広瀬が彼の分もアイスコーヒーを頼んだ。
それから、店内の一番すみっこの目立たない席に広瀬と若い男は座った。
若い男は、コーヒーショップの席に座ると、前に置いた大きいサイズのアイスコーヒーを急にゴクゴクと飲み干した。
広瀬は、事情を話すように促した。
力になれるかもしれないし、場合によってはカバンを男に渡してもよい、と告げた。
もちろんカバンを返すつもりは毛頭にないのだが、こういう時には嘘はついてもいいはずだ。
最初のとっかかりとして名前を聞くと、しばらく逡巡していたが、井上と名乗った。
偽名をすぐに思いつけるほどゆとりもなさそうだから本名だろう。
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