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第87話
この場から逃げることはできないのは、広瀬にもわかってはいる。
よくよく考えた後で、「そのカバンは落とし物だ。持ち主に戻したい」と広瀬は言った。こうして口を開いて初めて喉がカラカラで声がかすれているのが分かる。「そのカバンを返して欲しい。俺が探し出したんだから」
勢田は、机の上のカバンに開いた穴に手をやる。
「このカバン」と勢田はカバンの穴に指を入れ中に触れながら言う。「持ち主というのは、加次井の連中のことか?」
「違う」と広瀬は答えた。
依頼主の感じの悪い男の名前も会社名も、加次井ではない。
だいたい加次井というのは何なのだろうか。ヤクザの組の名前なのか。
勢田は、早乙女に目を向けた。早乙女には言葉での命令は不要だった。彼は広瀬の脇にいる男たちに、衣類を探るよう言った。
身体中を乱暴にまさぐられ、ポケットから2台のスマホと、財布と鍵、名刺入れが、テーブルの上に並べられた。
勢田は名刺入れを手に取った。
「仕事をしているのか」と彼は独り言のように言った。
そして、名刺入れの中からすべての名刺を取り出した。
中には、広瀬の名刺と同僚の名刺、あの依頼主の名刺しか入っていない。
「この前警視庁を辞めさせられて、いつ転職したんだ?」
勢田は広瀬の状況を知っていたのだ。
彼は広瀬の名刺の表裏をしげしげと眺める。
「タイセクトーン 調査員 広瀬彰也」と名刺を読み上げる。
早乙女が素早く自分のスマホで会社名を検索し、勢田に差し出している。
勢田は会社の情報を見た。
それから、顔をあげた。呆れたような表情をしている。
「彰也、お前はこのセキュリティコンサルの会社の従業員になったのか」と彼は言った。
自分に勝手になにをやっているんだ、という口ぶりだ。
勢田こそ広瀬には全く関係のない人間なのに、なにを言ってくるのだ、とむっとした。
彼は早乙女にスマホを戻した。
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