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第113話

翌日の仕事終わりに広瀬は忍沼と会う約束をした場所を訪れた。そこは、夏の間は深夜まで営業している水族館だった。 入り口付近の小ぶりの水槽の前で忍沼が手を振っていた。チノパンにポロシャツ姿だ。背中に小さめの四角いリュックを背負っている。 彼は一人だ。今日は元村融は一緒ではない。いつも通りのやさしい笑顔で広瀬を迎える。 「遅くなってしまってすみませんでした」と広瀬は頭を下げて詫びた。 仕事が思ったよりも長引き、約束の時間より20分ばかり遅れたのだ。 「気にしないでいいよ」と忍沼は言った。「ここだと待ってる時間も楽しめるからね」 忍沼によると夜の水族館は人気だそうだ。確かに混雑している。談笑しながら通りすぎるカップルや数人のグループ、水槽を丁寧に覗き込みながら一人でゆっくりと歩いている人などかなり大勢いる。 忍沼について歩いていくと大きな水槽の前に来る。群れを成して泳ぐ小魚やスピードの速い魚、ゆったり泳ぐ大型の魚が混在している。 広瀬はガラスの向こうで規則性をもって泳ぐ魚に引き込まれた。どの魚も同じ水槽の中をずっと泳いでいるのだ。長い時間同じ動きを繰り返している。 「きれいだよね。気に入った?」と忍沼は水槽に見とれている広瀬に言った。声が嬉しそうだ。「僕、ここの年間パスポート持ってるんだ。好きでしょっちゅう来てる。たまにはこういうところで会うの楽しいよね」 広瀬は水族館は久しぶりだった。子供のころに学校の授業で行って以来だ。あの時に行った水族館と比べるとかなり展示に工夫がされているように思える。 水の中に動くきらきらとした動きを目で追っていると心が落ち着いてくる。 ところが、ふいに、わっと歓声があがり、魚の群れが乱れた。 係員が水槽に入り、えさを蒔きだしたのだ。 騒がしくなった水槽から広瀬は目を離し、忍沼を見た。 「ここは人が多いから、あっちに行こうか」と忍沼は言った。そして、餌やりに沸く人の波を越えて、歩いた。

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