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11,夜空と水の味
「あっ、は……」
羽田さんが男の肩を押さえ、息をつく。
「待って、急ぎすぎ……」
口から解放された彼の男性器が、ぴんと跳ね上がるのが見えた。大きく丸い亀頭がキャンディのように艶やかに光っている。
ゴクリとのどが鳴る。その瞬間、視線を上げた羽田さんと、ふいに目が合ってしまった――。
あの日のことを思い返すと、今でも衝撃と胸の震え、そして息苦しさがよみがえる。
(あの人があんな姿を見せなければ、俺は素直に、あの人に憧れていられたのに……)
小さなどぶ川に差しかかり、俺は暗い川面を見下ろした。
マネージャーの車で撮影所近くのマンションへ送り届けられ、その日の夕刻。思いあぐねた俺は、ひとり近所をジョギングしていた。
この辺の地理にはまだ慣れていない。スマートフォンの地図を見て、自分のいる地点を確かめる。
思考の迷路にはまってしまっている。どこか、広い場所へ出たい。
地図を2本指でずらしていくと、すぐ近くに大きな河川があった。そこまで行こうと考え、人気のない夕方の道をまた走りだす。
どうして1カ月も前の記憶が、身体的な緊張をともなって細部までありありと思い出されるのか。そろそろ記憶がぼやけても、忘れてもいいはずなのに。それができない。
あれが羽田さんでなく、別の共演者だったなら? 監督なら? 前のレッドなら? 真ユーマニオンの主演俳優なら……。
確かに羽田さんは俺にとって憧れの人だ。けれどもそれは唯一の思いというわけでもなかった。それなのに俺はどうして、彼だけにここまでこだわっているのか。
あれこれ考えてみても、暗い道の先には何も見えなかった。
*
目的の河原に出ると、そこはちょうどいいジョギングコースになっていた。川沿いの土手の上が舗装され、ランナーが2、3列ですれ違うだけの広さもある。
学校の部活動か何かか、ジャージ姿の一団がかけ声をあげながらゆっくりとそこをならしていた。
寒い季節だけれど、走ってきた体には川面を吹き抜けてくる風が心地よい。
それからジャージの彼らとぶつからないよう、通り過ぎたところを逆方向へ走りだそうとした時。正面から速いペースで駆けてくるランナーに気づいた。
夕暮れの中、逆光で顔は見えない。けれどその姿を見た瞬間、走りだそうとしていた体が強ばった。
背筋を伸ばした美しいフォーム、均整の取れた逞しい体つき。羽田さんだ。
「あれ、一月か!」
数メートル先で気づいて、彼は走る速度を緩めた。
「お前もジョギング?」
「まあ……」
「1人で?」
「見れば分かるでしょう」
昼間のことが尾を引いて、まだまっすぐに顔が見られない。いや、羽田さんのことを今まさに考えていたからか……。
「じゃあ、俺は……」
すれ違って行こうとする。ところが羽田さんは、わざわざ方向転換して追いかけてきた。
「えっ、なんでこっち来るんですか!」
「いいだろ、別に」
「羽田さんは向こうに行くんでしょう」
「そう決めてたわけじゃない」
仲良く2人でジョギングなんて気分じゃない。それにマネージャーからも、彼には関わるなと言われたばかりだ。
(もうめんどくさい!)
彼から離れたくて、地面を蹴る足に力がこもった。
「あっ、お前! 俺にかけっこで敵うとでも思ってんのか?」
後ろからくる羽田さんも速度を上げる。
「かけっこじゃありません! ついてこないでください!」
「同じ方向に走ってるだけだろ」
「それが迷惑だって言ってるんです!」
距離を取ろうとすると、彼も同じだけペースアップする。ジョギングというよりほとんど全力疾走だ。
「はぁ、はぁ……」
「無理すんなって! 俺とお前じゃ鍛え方が違うんだ」
ぴたりと後ろにつけてくる羽田さんを振り向けば、その顔は面白そうに笑っていた。
(くそう!)
見るからに鍛え方が違うのは分かっているけれど、ここでやすやすと負けを認めるのはシャクだ。
夢中で走るうち、すっかり辺りは夜の景色になっていた。
*
(あー……もう、限界……)
暗く沈んだ川面を見下ろし、俺は土手の上に身を投げ出す。枯れ草の香りがふわりと鼻腔 をくすぐった。
「全力疾走で2キロか。よく頑張ったな!」
羽田さんがそばに立ち、真上から俺を見下ろした。道沿いの街灯がその笑顔を明るく照らしている。
これだけ走って、どうすればたいして息も乱さずに笑っていられるのか。本当にワケが分からない。俺は屈辱にまみれながら、両手に枯れ草をつかんだ。
そんな時、ふと頬 に冷たいものが当たる。
「飲むか?」
見上げると、羽田さんが透明なペットボトルを差し出していた。俺はためらいつつも、乾きに勝てずにそのボトルへ手を伸ばす。
火照った手のひらに、夜の冷気を吸ったボトルが心地よく馴染 んだ。
座ってキャップをひねり、一気にのどへ流し込む。
「は……うまい」
「ただの水だって」
隣に座った羽田さんが笑った。うまいなんて感想を、自然と口にできていた自分に驚く。
(気持ちが昂 ぶってるよな……)
不思議な感慨にとらわれながら、並んで土手に座る羽田さんの横顔をそっと見た。
両腕で大地をつかみ両足を投げ出し、夜空を仰いでいるその顔が、やけに清らかに目に映る。
何かが少し、胸の中から洗い流された気がした。
(本当に、この人はなんなんだろう……)
ぼんやり見ていると、ふいにこっちを向いた羽田さんに、手の中のボトルを奪われる。
「あ……」
俺が半分飲んだ水の残りが、彼ののどに送り込まれていった。
「確かにうまい」
彼は笑って、空になったボトルをペコリとへこませる。軽く心地よい破裂音が冷えた夜空に吸い込まれていった。
どうしてだろう、不思議と泣きたい気分になる。
「すみません、俺……上手くできなくて」
言うつもりもなかった言葉が、口からこぼれ落ちた。
「昼間のロケ?」
「他に何かありますか」
今謝ったばかりなのに、すぐに言葉はとげとげしくなる。分かってる、過剰防衛だ。
羽田さんはちらりと俺を見て、また視線を空へ戻した。
「毎年こんなもんだ。初めから上手くやれるやつなんていない」
ユーマニオンシリーズは毎年無名の若手をオーディションで選び、新しいヒーロー役として迎え入れている。それを考えれば彼の言う通りなんだろう。
「けどお前の場合、周りの期待がデカすぎるんだろうな。今までだったら監督も、新人にあそこまでは求めなかった」
「え……」
どう返したらいいのか分からない。空を見ていた羽田さんが、体ごとこっちへ向き直った。
「お前とだったらもっと面白いものが作れそうだって、期待してるんじゃないのか」
「監督が?」
「監督もそうだし、それに……」
そこでどうしてか彼は視線を外し、ぽりぽりと首の後ろを掻いた。
「みんなだよ、俺も含めて。言うなれば、ユーマニオンシリーズを愛する者たちみんな」
恥ずかしそうに言う羽田さんの態度から、それはお世辞じゃない本当の思いなんだと実感した。
照れくさくて、そして胸の辺りがむず痒 くなるほど嬉 しい。
「ユーマニオンシリーズを愛する……」
「お前だってそうだろ」
「羽田さんも」
「ああ、こんな仕事、好きじゃなきゃやってない」
嬉しい。けれどそこで引っかかってしまうのは、やっぱりあの顔合わせの日、倉庫の小部屋でのことだった。
「だったら、なんであんなこと……」
ユーマニオンシリーズが大切なら、どう考えてもあれはないと思う。
「あんなこと?」
羽田さんがきょとんとした顔で俺を見る。
「心当たりがないとでも?」
「いや、まあ……なくはないけどさ!」
彼の顔に、渋い笑みが浮かんだ。彼自身もあれは、少なくとも俺に見られたことについてはマズかったと思っているらしい。
その顔を見ながらため息が出てしまった。
「俺はああいうの認めませんから」
「ああいうの?」
「ヒーローを演じる人間が、ヒーローらしからぬ行いをすることです!」
「だから俺はレッドにふさわしくないって?」
「分かってるじゃないですか」
「ふーん……」
どうしてかそこで面白そうに、顔をすがめ見られる。
「……っ、なんですか?」
「あのさ一月、俺は撮影所でセックスしたって、現場の進行を止めたりはしない」
笑いながらさらりと言われて、なんだかぎょっとしてしまった。
「はあっ、何言ってるんですか! 真剣にやって上手くできないのと、不真面目な思いで不道徳な行いをするのとを同列に扱わないでください!」
「不真面目で不道徳ねえ……お前には俺がそういうふうに見えてるわけか。お前、年いくつだっけ?」
「ハタチですけど、それが何か」
「ハタチかあ、よーく育ってるのにな!」
頭のてっぺんから足の先まで、楽しそうにじろじろと眺められた。背中に鳥肌が立つ。
「お前、ちょっとウチ来いよ」
その誘いにドキッとして、反応が遅れた。
「……!? なんで俺が、羽田さんの家に行かなきゃいけないんですかっ」
「すぐそこだからさ、茶でも飲んでけよ」
「今、水を貰いました!」
嫌な予感しかしない。むしろ身の危険を感じる。
「マネージャーからも、あなたとは個人的に付き合うなって言われていて……」
「ハタチだろー! ママが駄目って言ったとかマネージャーに言われたとか、そういうのはいい加減に卒業しろよな」
なんだかんだと言いくるめられ、川沿いに建つ木造アパートへ連れていかれる。
普段の俺なら付いていったりしないのに、羽田光耀の自宅を見てみたいという特撮ファンとしての興味に引っ張られてしまった。
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