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19,呼び鈴
「何、さっきの」
食後、洗面所で手を洗って廊下に出たところで、ばったり会った羽田さんに聞かれた。
「ああ……あれは昨日の〝練習〟の続き」
「なるほどな」
彼は小さく笑い、俺の手首に触れてくる。
ドキリとしてしまって、俺は思わず周囲を窺った。自分たち以外に、今いる廊下には人影はない。
「やっぱ慣れない?」
「慣れないというか……」
触られるより自分から触ろうと思い、羽田さんの手をつかみ返す。すると迎え入れるように彼の手のひらが開き、手のひら同士が合わさった。
硬い手触りと湿り気、そして少し高い体温を感じる。
(これが羽田さんの手……)
なんだか気持ちが高ぶってしまい、それに合わせて胸の鼓動も速まった。
マネージャーや共演者たちの時みたいに、落ち着いた気持ちではいられない。
「少しは慣れたかと思ったのに……」
手を放せないままため息をついた。
「あなたとは駄目みたいです……」
「なんで!?」
羽田さんが心外そうに声をあげる。
「他の人たちは、自分から手を握れば大丈夫だったんですが……」
「なんで俺だけ駄目なんだよ」
そう聞かれて、俺はなんとか自分の中から答えを見つけ出そうとする。
「羽田さんは、なんていうか……」
特別視してしまっているという事実を、そのまま伝えるのは気恥ずかしかった。
「なんだよ、言えよ! 気になるだろ~」
「それは羽田さんが……不真面目で不道徳な大人だから?」
そうだ、きっとそれだ……。俺は羽田さんの、そういう部分に過敏になってしまっている。
あんな姿を見せられたせいで、この人の未知の部分が恐ろしいんだ。
「はあ、そのことか……。お前、いつまでも気にしすぎだろ」
「だって……」
いつもみたいに苦情を言いたいのに、手を繋いだままでは息をするのも苦しかった。それなのに体が硬直してしまって、握り合っている指をほどけない。
羽田さんの方もどうしてか苦しげな息をしていた。
「一月、こんなこと言うのもアレだけどさ……お前んとこのマネージャーもヒロインちゃんたちも、たぶん誰かしらとそういうことしてる。撮影所ではしないだろうけど」
確かに、普通に考えたらそうなんだろう。3人とも俺より年上だ。
言葉に詰まる俺を前に、羽田さんは続けた。
「だからそういうの、特別だと思うのやめろよ。俺に言わせりゃハタチ過ぎても中学生みたいな倫理観を持ってる方が特殊」
「なんですか中学生って!」
「中学生だろー!」
言い合いになった勢いで、握り合っていた手が離れた。俺はその流れでひざへ腕を突き、大きく息継ぎをする。
それを見た羽田さんが、あからさまに顔をしかめた。
「そんなに俺に触られるのが嫌なわけ?」
「嫌とかじゃなくて! 俺だって、なんとかしたいと思ってるんです! 少なくとも俺はあなたを傷つけたくはない。受け入れられたらって思ってる……」
「そうか……なら悪かった、俺の方が取り乱して」
「え……?」
さらりと謝られてしまい、ますます混乱する。
「受け入れられたら、か……」
羽田さんがつぶやいた。
「お前は本当にまっすぐだよな……」
「え……それはむしろ羽田さんの方じゃ……」
茶化されたりからかわれたりもするけれど、羽田さんは案外、俺に対してまっすぐに向き合ってくれている。こうやって手に触れてくるのだってそうだ。普通ならこんな馬鹿なことに付き合ったりしない。……そう考えるのは無防備すぎるだろうか。
と、彼の右手がふいにこちらへ伸びてきた。
「……?」
その手は俺の前髪に触れかけて、思い直したように離れていく。
羽田さんの口元に浮かんだ微笑みが、どこか寂しげに見えた。
「一月……今夜でも時間あったら、また俺んち来いよ」
「えっ……?」
(なんで突然……)
「いつでもいいし、気が向いたらでいいから」
羽田さんはそれだけ言うと、ひらりと手を振って行ってしまった。
*
その晩のこと――。
(向こうの目的も分からないし、来るべきなのかどうか悩んだけど……)
前にも来た川沿いのアパートを、俺はひとり見上げた。
川面を渡って吹きつける風が、今夜は一段と冷たい。時刻は20時過ぎ。1階にある羽田さんの部屋の窓を窺うと、中には明かりがついているようだった。
(自分から来いって言ったからには、俺が来るのを待ってるんだよな)
俺が今夜ここに来たのもそれがあったからで。来なければ何時まででも何日でも、羽田さんを待たせるような気がしたからだ。
ヒーローは必ず、待っている人のところへ現れる。
けれども玄関前の呼び鈴を鳴らそうとすると、その手がためらった。
(何びびってんだ!)
変色したプラスチックのボタンを睨む。さすがにもう羽田さんに何かされるとは思わない。けれどやっぱり、プライベートな空間で会うと思うと緊張してしまった。
しかし、ここに来たことをマネージャーに知られては厄介だ。羽田さんに関わるなと何度も釘 を刺されている。
マネージャーも俺を見張るほど暇ではないだろうけれど、ここは撮影所の近くだし、誰かに見られて彼の耳に入ることだってあり得る気がした。
(モタモタしてちゃ駄目だ)
俺はもう一度辺りを見回し、思い切って呼び鈴を鳴らした。静かな夜のアパートに、どこにでもあるようなチャイムが響く。
それから10秒と待たずに、羽田さんがドアから顔を出した。
「お! 来たか」
その顔を見て、ホッとする気持ちと緊張が入り交じる。例えるなら迷い込んだ山の中で見知らぬ山男に会ったような、そんな気分だ。
「来ましたよ。来いって言ったのはそっちです」
「だよな、よく来た。けど一月、すげー恐い顔してる」
しかめていた眉間を指ではじかれる。
「討ち入りでもしにきたのか? 一月ならそういうのでも大歓迎だけどな!」
部屋着姿の羽田さんに茶化されながら、俺は中へと足を進めた。
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