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20,過去の遺産
晩酌中だったのか、テレビの前の座卓には缶ビールと乾きものが乗っていた。テレビ画面には夜のニュースが映っている。
「飲む? っていうか飲めるんだっけ?」
キッチンの冷蔵庫を覗 きながら、羽田さんの背中が聞いてきた。
「飲めなくはないですけど……」
「まあ、無理には飲ませない方がいいのかな」
そう言いつつ、彼は冷えた缶ビールを寄越してくる。
「でも、なんでビールなんですか?」
「んー、なんとなく? 今日はそういう気分だから」
(気分……?)
よく分からないけれど、その〝気分〟に付き合う感じになってしまった。
俺がテレビの正面、羽田さんが俺の斜め前に座る。すでに開いている羽田さんの方の缶から、アルコールの香りが鼻に届いた。
自分の方の缶を開けようとすると、羽田さんが俺の手元を見る。
「で、その後どうだ? 例の〝練習〟は」
「いや、あれからまだ半日ですよ」
「それもそうか」
俺もなんとなく、座卓の上に置かれた羽田さんの手に目を落とした。骨太で厚みのある手。その手の甲に太い血管が浮いている。
(なんでだろ、この人は何もかもが生々しい……)
見ているだけで呼吸が乱れる気がして、俺は手元の缶に視線を戻した。と、一瞬前まで見つめていたその手が近づいてきてドキリとする。
「開けようか?」
「……え?」
「それ」
羽田さんが俺の手の中のビールを取り上げた。手と手は触れ合っていないのに、握っていた缶を抜き取られただけで口から魂が抜け出ていきそうになる。
彼は不思議そうな顔で、俺と缶ビールを見比べた。
「……? 開けるのに苦戦してるみたいだったから……」
(ああ、なるほど!)
彼は俺がプルタブをいじりながらモタモタしているのを見て、缶を開けられずにいると勘違いしたらしい。
そんなわけない。けど、あなたの手に見とれてたなんてことは言いたくない。
俺は何も言わずに羽田さんから缶ビールを奪い返した。
「自分で開けられます……。開けられないなんて子どもですか……」
「いや、爪の具合とかいろいろあるだろ」
「だから違いますって!」
目の前で缶を開け、勢いよくそれをあおってみせる。そんな俺を見て羽田さんが笑いだした。
「おー、一月はオトコマエだな!」
快活な笑い声を聞きながら、冷たく苦いものが胃に染みていくのを感じる。
「いちいち茶化さないでください」
「茶化してるんじゃない、褒めてる」
「羽田さんみたいな本物の男前に言われたら、誰だって茶化されてるんだって思います」
そうなんだ。この人のこういうところが面倒くさい。クランクイン直後は羽田さんに演技を褒められても、俺はそれを素直に受け取ることができなかった。
他の人ならともかく、この人に言われると、逆に自分の負けを自覚させられる。
「それ、褒め言葉だって受け取っておく」
羽田さんが余裕たっぷりに笑った。それから彼はふと真顔になってビールをあおり、座卓から立ち上がった。
「実はさ……一月をここへ呼んだのは、お前に見せたいものがあったからなんだ」
「見せたいもの?」
(なんだろう、心当たりはないけれど……)
羽田さんの声がなんだか強ばって聞こえて、俺の方が緊張してしまう。
見ていると彼はこの前真ユーマニオンの指輪を出してきたその棚から、今度は両手で抱えるくらいの大きさの箱を取り出した。立ったまま箱の中を覗き込むその顔は、やはり緊張してみえる。
「それ何ですか?」
「うん……」
「うん、じゃ分かりませんけど……」
俺もその場の空気に呑まれてしまい、こちらへ戻ってくる羽田さんを固唾 を呑 んで見守った。
「これは言わば、過去の遺産だな」
「遺産って、誰のですか?」
「もちろん俺のだよ」
「……?」
「つまり、こういうやつ」
羽田さんが箱から取り出したものをひとつ、俺の方へポンと投げて寄越した。
「……! なんですかこれ、DVD……」
(え――?)
キャッチしたDVDのパッケージを見て、俺はその場に凍りつく。そこに印刷されているのはものすごい美青年が、ブリーフ1枚で後ろから男に抱きつかれている写真……。
パッケージの裏側は、一瞬だけ裏返してみて見ちゃいけないものだと理解した。
俺が動揺しているうちに羽田さんが座卓まで戻ってきて、DVDの詰まった箱を足下に下ろす。その振動に肩が跳ねた。
「若い頃の俺、なかなかいい男だろ?」
彼は冗談めかして言ってくる。
(ってことはこれ……本当に羽田さん?)
立ったままの彼の顔を、俺は恐る恐る見上げる。
DVDの写真は年齢だけでなく、今とは髪型や髪の色も違うけれど、これだけ分かりやすい男前はそういない。他人の空似という可能性はなさそうだ。
「それは10年くらい前、今の一月と同じ年頃のやつだな」
(じゃあ、ハタチの羽田さん……)
どうしてこんなキラキラした美青年が、こんな作品に出ていたのか。きっとワケありなんだろうけれど、今の羽田さんとパッケージのハタチの彼が繋がらない。
「ごめんなさい、ちょっと……意味が分からない」
俺は握っていたDVDを箱に戻し、ベランダの方へと視線を逃がした。のどの筋肉が引きつって苦しい。俺は汗ばんだ手をジーンズの太腿 で拭き、好きでもないビールをあおった。
ひと呼吸置いて羽田さんが座り直す。
「一月さあ、動揺させて悪いけど、ちゃんとこっち見てくれる?」
「……っ……」
「説明……したいんだけどな……」
彼の声色はいつになく頼りなげだ。そんな声を聞かされたら、こっちはますます動揺してしまう。
でも人に言いにくい過去を晒 している彼の方が、俺よりよっぽど平静でいられないはずだ。
(目を、逸らしてる場合じゃない)
俺は意を決して羽田さんの方へ向き直る。ゆっくりと息をつき、視線を合わせた。
「そんな死にそうな顔すんなよ」
羽田さんがくすりと笑った。
「なんか、普段の一月じゃなくて演技してる時のお前みたいだな。一月はカメラの前にいた方が表情豊かだから」
それはそうかもしれない。俺は演じている時の方が感情を素直に出せる。
「羽田さんが俺を、非日常の世界に引きずり込むからです……」
そうだ、こんなのは非日常だ。だから動揺している。
「非日常か……」
繰り返し、羽田さんが苦笑いを浮かべた。
「俺にとっては日常なんだけどな」
「何が日常だっていうんですか。こういうビデオに出ることが? それとも共演者にこんな過去を打ち明けることが?」
「ちげーよ、お前にしか言ってねーし! 俺は露出狂か何かか!」
今度はプッと笑って言われた。
「じゃあ、どうして……」
「それはだな!」
羽田さんがひざを詰めてくる。
「こういうのも普通に人間の日常だって、お前に伝えたかった」
「は……?」
説明されても、やっぱり意味が分からなかった。
「これのどこが日常なんですか」
若い羽田さんが、ガッツリ男と絡んでいる写真が目の端に映る。
「俺はこんなもの、生まれて始めて見た」
「だろうな」
悲しげな笑みが返ってきた。
「お前は大手プロダクションに囲われて、何不自由なくここまで来たのかもしれないが。俺がお前くらいの頃は、演技の仕事だけじゃ食えなくて、こういう手っ取り早いバイトもした」
「…………」
「そんな目で見んな。こんなん、別に恥でもなんでもねえよ! これが誰かの慰めになったならそれで結構じゃねえか」
羽田さんはDVDをまた箱から取り出し、パシンと音をたてて俺の手に渡した。
勢いに押され、手渡されたパッケージに目を落とす。写真の中から視線を投げかけている若い羽田さんは、妙な色気を振りまきつつ不思議な自信に満ちあふれてみえた。
「だからさ一月、人はエッチもするし、こういうもの使ってオナニーもすんの。そんなん、恥ずかしいことでも悪いことでもない。お前は特別なことだって思ってるのかもしれないけど、俺にとっては日常! オーケー?」
「オーケーかって聞かれても……」
自分の声が、やけに自信なさげに部屋に響く。
「そうだな、じゃ、聞き方を変える。俺のこと、やっぱり気持ち悪い?」
「えっ……!?」
「エッてなんだよ……」
大げさにふくれられた。
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