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34,湯けむり
翌朝の雪山は、昨日の吹雪が嘘 みたいに眩 しい朝日を反射していた。
「すまなかったね、一月くん」
撮影の準備が進められる横で、また監督に謝られる。
「そのことはもう……」
監督には昨夜も謝られっぱなしだった。
「体は本当に、どこもなんともなかったんだね?」
「はい」
聞いたところによると、昨日の事故はスノーモービルの整備不良が原因だったらしい。俺は岩に乗り上げたスノーモービルから投げ出され、安全ネットを跳び越えてスキー場の敷地の外まで行っていた。それで探索の目が届かずに、見過ごされていたわけだ。
あの時は本当に死ぬかと思ったのに、俺は今日もまた昨日と同じような朝を迎えている。
(あの人のおかげだな……)
羽田さんは雪景色の向こうで、熊谷さんと殺陣の確認をしていた。というか、じゃれ合っているだけにも見える。
構えをほどき、羽田さんが親しげに熊谷さんの肩を抱いた。
(あの2人、仲がいいよな……)
作品ごと1年単位で入れ替わる俺たち俳優陣とは違って、アクションチームは毎年似たような面子でやっている。事務所も同じアクション俳優専門のところだ。
そんな彼らの結束が固いのは当たり前。中でも熊谷さんは羽田さんをアニキと呼んで慕っているみたいだし、羽田さんもそんな熊谷さんをとても可愛がっているように見えた。
ああいう人間関係が濃い組織は、俺には向いていない。けれども少しだけ、彼らが羨ましくもある。
それにしても……。昨日俺にキスした時のような羽田さんの一面を、周囲の人間はどれだけ知っているんだろうか。プロデューサーとの関係も、俺以外に知っている人はいないみたいだし……。
本当にあの人はつかめない。どれが本当の羽田 光耀 なのか。俺の知らない一面も、まだまだあるような気がした。
「それで、あんなことがあったばかりで申し訳ないけど、今日は巻きで撮らなきゃいけなくて……一月くん、聞いてる?」
「……あ、はい。すみません」
いつの間にか上の空になっていて、俺は慌てて監督に向き直る。
今日は忙しくなりそうだ。
*
2日目の撮影は日暮れとともに終了し、撮影チームは宿泊先の旅館に引き上げた。
昨日はゆっくり風呂に浸かる暇なんてなかったけれど、ここは有名な温泉地らしい。
(泊まるのは今日で最後なんだし、一応入っておくか)
俺はふとそんな気持ちになり、深夜近くになってから旅館の大浴場に行ってみることにした。
浴衣姿で廊下を歩いていると、宴会場の方からにぎやかな声が聞こえてくる。撮影チームはまだそこでお酒を飲んでいるみたいだ。
これなら彼らと風呂場で行き合うこともないだろう。旅館は撮影チームで借り切っているから、他に客はいないはずだし。
ところがタオル1枚で大浴場に乗り込むと、思いがけない先客がいた。
「プロデューサー……」
「やあ、一月くん」
湯船の中からヒラヒラと手を振られる。
(この人も来てたのか……!)
彼が今回のロケに同行していたなんて、俺は知らなかった。おおかた宴会と温泉を目当てに来たんだろう。
それはともかくとして、この前の喫煙所での一件からまだ2週間も経っていない。裸で2人きりになるなんて、さすがに気まずすぎる。
だからといって、ここで回れ右して帰るのも格好がつかない気がした。この前虚勢を張っておいた自分のせいだ。
(……仕方ない)
俺は体を流し、プロデューサーとは別の浴槽を選んで入った。
「なんでそんな端っこに入るかな、こっちへ来たらいいのに」
天井に響く声で呼ばれる。
「俺はここでいいです」
「何? 警戒してる?」
(警戒するなっていう方が無理だって!)
けれども向こうも丸腰だ。素手での戦いなら、きっと俺の方が動けるに違いない。ここ数カ月、アクションシーンのために鍛えた体に、俺もそれなりの自信を持っていた。
そこで俺は思い切って湯船から上がり、プロデューサーのいる真ん中の浴槽へ歩いていく。
「さすが、いい体してるね」
本気なのか茶化しているのか、彼はそんなことを言ってきた。
「おかげさまで」
「僕も若い頃はそれなりに鍛えてたんだけどね」
そんなことを言いつつも胸を張っているところをみると、きっと今でも様になっている自信はあるんだろう。
ならばと正面まで行って、思いきり視姦 してやった。ジムにでも通っていそうな体だ。けれど肌には年齢が出ている。
「な、何かな……?」
遠慮のない視線に堪えかねたのか、プロデューサーが目を泳がせた。
「こっちに来いって言ったのは、あなたです」
「そんなところに仁王立ちしてないで、浸かったら?」
「そんなに俺と入りたいですか?」
「え……?」
彼は口を開けたままこちらを見上げた。
「入ってあげてもいいですけどね。あなたと2人きりで入ったなんて言ったら、羽田さんに怒られちゃうかな。あの人あれで結構、嫉妬深いから」
上から見下ろし、高飛車に言ってみる。
「君は……」
プロデューサーは息をつき、困り顔をしてみせた。
「羽田くんは嫉妬するタイプじゃないだろう」
「さあ、どうでしょうね」
この人が羽田さんをよく知っているつもりでも、いろいろな顔があるのが羽田光耀だ。
「俺と2人きりの時のあの人は、あなたの知らない顔をしているのかも」
「へえ、例えばどんな?」
そう聞かれて、昨日見た景色が頭の中に再生される。長いキスのあと、唾液を飲み下すあの人ののど元と、照れくさそうな表情。
どうしてだろう、あれは俺だけのものであってほしいと本気で願った。
「おや? 顔色が変わったね」
プロデューサーの目が笑っていた。いったいこの人は俺の何を笑っているのか。俺のあの人への思いは、他人に茶化されるべきものじゃないし、共有することすら必要ない。
「ごめんなさい、あなたに教えてあげられることは何もありません」
「ん……?」
「2人きりの時のあの人を語るなんて勿体 ない。どの瞬間も、ひとつ残らず俺だけのものですから」
そんなふうに答えると、プロデューサーの笑みが苦笑いに変わった。
「ちょっと、この風呂は熱すぎるな」
「……?」
「僕はもう行くよ。君たちを燃え上がらせる燃料になるのも本意じゃないしね」
立ったままの俺の横を素通りし、彼は脱衣所へと消えていく。
「はー……」
妙なテンションから解放されて、俺はようやく湯船に身を沈めた。
(今の対応で正解だったのかな? 羽田さんの恋人役、毎回緊張感が半端ないんだけど……)
そんなことを思いながら湯船で手足を伸ばしていると、また戸口で物音がする。
プロデューサーが戻ってきたのかと思ったら、そこにいるのは羽田さんだった。
俺は湯の中で思わず身を強ばらせる。
ところが湯けむりの向こうから近づいてくる彼は、どうしてか肩を小刻みに震わせていた。
「……羽田さん?」
「一月、今の……」
同じ浴槽に身を沈めてから、彼は声をたてて笑いだした。
「ほんっと最高だな!」
「……なっ、もしかして見てました!?」
「見てた、聞こえてた、すっげー笑った!」
羽田さんの逞しい肩が、水面にいくつもの波紋を作る。
「お前なあ、プロデューサーのこと虐めすぎだろ! ってか何、あのキャラ! 小悪魔? 女王様? 迫真の演技っていうか、才能の無駄遣いだろー!」
「待って、俺も好きでやってるんじゃなくて……元はといえばあなたが……」
そうだ。羽田さんが冗談で『俺たち付き合ってる』なんて言いだしたのが始まりだった。
「それにしたってさ!」
彼はまだ笑いを収めきれずにいる。
(この人は……人の苦労も知らないで!)
大口開けて笑っているその顔に、湯船のお湯をかけてやった。
「ぶっ! 何すんだ!」
「笑いすぎで――……うわっ!」
今度はしゃべっている俺の顔をめがけて、羽田さんが手のひらの水鉄砲を飛ばしてくる。
それからは子供のようにお湯のかけ合いになった。
「一月、逃げんな!」
「や、洗面器はないでしょう!」
他に人がいたら、確実に怒られるか呆れられる。けれど俺は少しホッとしていた。裸のこの人と真面目に顔を突き合わせていたら、きっと心臓が持たない。
俺を全身水浸しにしてから、羽田さんが大きな声で言った。
「お前ホント最高だな、俺、一月が大好きだわ!」
(え……?)
手のひらで顔の水滴を拭いながら、羽田さんを振り返る。その〝好き〟に深い意味はないんだろうけれど、始めて言われてびっくりした。
(この人もしかして、本当に俺のことが……)
素直じゃない羽田さんのことだから、冗談の中に本音を隠して言ってきているのかもしれない。そんな気がしてならなかった。
「一月」
「は、はい!」
「お前、顔真っ赤」
顔を覗き込まれ、思わず湯船の中で後ろへ逃げる。
「なんでもありませんから! こっち来ないでください」
「何、俺に襲われるとか思ってるわけ?」
「えっ……?」
「逆に、襲ってほしいとか?」
ニヤニヤしているその顔から、からかわれているのはすぐに分かった。
「そういうこと言うの、ヒーロー役じゃなくても不適切ですから」
「そかそか、一月はちゃんと口説いてほしいのか」
「……そういうことを言っているんじゃありません!」
その時脱衣所の方から呼ぶ声が聞こえて、羽田さんはそっちへ顔を向ける。
「アニキー?」
「あの声は熊谷だな……」
どうも熊谷さんが羽田さんを探しにきたようだ。
「じゃあ、俺行くな? 一月ものぼせないうちに上がれよ」
羽田さんは俺を気づかいつつも、先に上がっていってしまう。
見事に引き締まったお尻を見送り、俺は思わず息をついた。
(どこが冗談でどこからが本気なのか。分かりづらいんだよな、あの人は……)
けど……羽田さんが俺に対して〝本気〟だったらどうなるんだろう。その時俺は、どうしたらいいんだろう。
疑問が浴槽を満たす湯のように膨れあがり、のぼせた頭を占領する。
見上げると広い浴場の天井で、湯気がぐるぐると渦を巻いていた。
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