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35,春

 あれから数カ月――。  マネージャーがいそいそと出したスプリングコートも見かけなくなり、いつの間にか上着の要らない季節になっていた。 「一月ほら、帽子とマスク」  俺は花粉症でもないのにマスクをさせられ、撮影所近くのマンションを出る。  すると最近よく見かける女性記者が、エントランスの外で待ち構えていた。  俺もこういう仕事をしているから、アポなし取材や写真を撮られることはたまにある。けれど、いかにもスキャンダル狙いという感じの記者に張り付かれるのは、今回が初めてだった。  俺なんかのスキャンダルにどれ程の値打ちがあるのか分からない。ただ、子供も見る番組の主演を張る以上、隙を見せるわけにはいかなかった。 「一月くん、こんにちは!」  言いながらカメラを向けられる。今まで何度もマネージャーに追い払われているのに、彼女もまったく懲りないみたいだ。そのバイタリティはすごい。 「すみません、プライベートなので困ります!」  マネージャーが俺を(かば)うように前に立ち、腕を突っ張ってカメラを遠ざけた。その隙に俺は車止めに停めてある、事務所の車へ乗り込む。 「一月くん、昨日の夜一緒にいた人は誰?」  助手席のドアを閉める瞬間、女性記者の声が後ろから追いかけてきた。 (――昨日の夜?)  その言葉に、心臓がドクンと脈打つ。昨夜といえば撮影が終わったあと、河原でたまたまジョギング中の羽田さんに会っていた。 (あれを見られたのか!)  あの時は立ち話をしただけで、話題も仕事のことだけだったはずだ。それでもこっそり見られていたのかと思うと、不安と不快感を覚える。 「仲良さそうに見えたけど」  窓越しに女性記者が、含み笑いでそう言った。普通に話していただけで勘ぐられるなんて。  とはいえ俺にプライベートで会う相手なんてほぼいないから、羽田さんの存在は特別に見えたかもしれない。  マネージャーが運転席に乗り込み、すぐに車を発進させた。そして横目で聞いてくる。 「昨日の夜一緒にいた人? おーい、誰だよそれ~」  冗談めかしているけれど、冗談じゃないってことは分かっている。俺は答えに詰まり、彼の横顔を窺った。  片手でシートベルトを締めてから、マネージャーがまた聞いてくる。 「いちお、俺はマネージャーとして把握しときたいんだけどな。それでも言えない?」 「いや……」 「じゃあ誰だよ? さっさと白状しちゃいなさい」 「羽田さん……。偶然会っただけ」  マネージャーがまたちらりと俺を見た。その顔はまだ何か言いたげだ。 「一月さあ」 「だから違うって」 「まだなんも言ってねーし」 「でも疑ってる」  それからしばらくの沈黙のあと。彼は赤信号で車を停めて口を開いた。 「昨日会ったのがたまたまだったとしてもさ、お前らって本当に何もないわけ?」 「何もって……」  つまり特別な関係を疑われているらしい。 「ないに決まってる。っていうか、そこまで疑われてるとは思わなかった」 「本当に信じていいのか?」  マネージャーが念押しする。 「事務所イチオシのお前に何かあるとさぁ、俺も会社で立場がないんだよな……」 「だから、何もないって言ってるのに!」  自然と眉間に力が入った。  俺と羽田さんの間には、本当に何もない。あの雪山でのキス以降は……。  思い出し、みぞおちの辺りがぎゅっと押さえつけられるように痛んだ。  何もないならそれに越したことはない。そのはずなのに、今の膠着状態(こうちゃくじょうたい)も息苦しい。  あれから羽田さんは、時々何か言いたげな顔をする。そのくせ俺がそのことを聞こうとすると、冗談でけむに巻いてしまうのだ。  撮影所で普通に接していても、どこか心のうちを隠しているような、そんな気配をずっと感じている。  だからといって俺も羽田さんとどうこうなりたいなんて、そんなことを考えているわけじゃない。ただすっきりしないのがもどかしい。どうしてこんな気持ちになるのか……。  俺は完全に自分自身を持て余していた。  信号が青に変わり、マネージャーがまたアクセルを踏みながら話し始めた。 「いいか一月、あいつとは絶対に外で会うな。あいつがユーマニオンレッドのスーツアクターだって知れたら、ゴシップ記者は今度は撮影所の方に張り込むぞ」  それでは撮影に支障が出てしまう、どうしても避けなきゃならない。 「羽田光耀は顔出しの役者じゃないからな、そう簡単に身バレしない。けど……」  そこでマネージャーの声が一段低くなる。 「厄介なのは、あいつが元ポルノ俳優だってことだよな。しかもゲイ向けの。あの女記者はもうお前とあいつが一緒にいるところの写真を撮ってるだろうし……。そっちの経歴に気づかれたら、格好のゴシップネタだ」  言ってから、マネージャーがゴクリとのどを鳴らした。確かに『ヒーロー役とポルノ俳優の忍び愛』なんて書かれたら、俺たちは下世話な世間のおもちゃにされる。当然ユーマニオンシリーズのイメージにだって傷が付く。  羽田さんがそんな目で見られるのも、もちろん俺は嫌だった。 (あの人とは会っちゃいけない)  会う約束をしているわけでもないのに、どうしてか絶望的な気分になる。 「そんな暗い顔すんな、あと半年の我慢だろ~!」  マネージャーが励ますように言ってきた。 「半年?」 「ユーマニオン・ネクストの撮影だよ。クランクアップまであと半年だ」 「うん……」  そこまではなんとしても逃げ切ろう。制作のために集まっている大勢の人たちのために、そして日本中で観てくれているファンや子供たちのために。 「撮影が終わればあいつと顔を合わせる機会もなくなるしな。一月も自然と他に目が向く」 「え……?」 (宇佐見さんの言う〝半年の我慢〟はそっちか……)  俺はほとぼりが冷めたら、また羽田さんと普通に向き合えるんじゃないかと思っていた。  それぞれの思惑は違うけれど、俺たちは同じ車で同じ方向へ進んでいく。  そして青葉の茂る街路樹を横目に、車は撮影所の敷地内へと入っていった。

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