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36,南国ロケ

「聞いたよ一月くん! なんかゴシップ記者に追い回されてるんだって?」  着替えを済ませスタジオに入ったところで、熊谷さんから挨拶変わりにそのことを言われた。  俺は外ではマスクに帽子で、マネージャーもピリピリしているから、様子がおかしいことはみんなにも丸わかりなんだろう。 「はい……俺なんか追いかけても、何も面白くないと思いますけど」 「でも一月くん、今ユーマニオン以外で露出ないでしょ? 一月くんのこと、なんでもいいから知りたいって人は多いんじゃない?」 「そんなもんですかね」 「人気者はつらいねえ」  濁す俺を見ても、熊谷さんはニコニコとしている。 (追いかけられるのは仕方ないにしても、マネージャーがなあ……)  彼は後ろの壁際に立ち、周囲に目を光らせていた。  あれはスタジオ内に大勢いる関係者の中から、羽田さんの姿を探している。きっとここで俺と羽田さんが雑談するのにも、マネージャーはいい顔をしないんだろう。これから半年、先が思いやられる。  ちなみに今日は羽田さんは、まだスタジオ入りしていないみたいだった。  と、そこへ真新しい台本を抱えた助監督が近づいてくる。 「そんな一月くんに朗報で~す」 「朗報?」  隣にいる熊谷さんも首を傾げた。 「夏の映画、タイのピピ島でのロケが決まりました! 海外まではさすがにゴシップ記者も追ってこないでしょう?」  そうして渡された映画の台本を開くと、確かに舞台は南の島と船の上になっている。 「海外? マジっすか!? 金かかってますね!」  熊谷さんが声を弾ませた。 「プロデューサーが奮発したみたいです! 今年は一月くん効果で結構な観客動員数が見込めますから、みなさんへの労いの意味も込めて」 (え、あのプロデューサーが?)  ニコニコしている2人を前に、俺はその事実を少し意外な思いで受け止める。 (羽田さんとのことさえなければ、あの人も悪い人ではないのかも……?) 「楽しみだな、南の島でバカンス!」 「熊谷さん、バカンスじゃなくて撮影ですからね、一応」  浮かれる彼をたしなめて、助監督は去っていった。けれども熊谷さんの夢はふくらみ続ける。 「一月くん、海だよ! 泳ごうよ~!」 「ええ、まあ、機会があれば……」 「そういえば一月くんって泳げるの?」 「そう言われてみると、学校のプールで泳いだことくらいしか……」  純然たる引きこもりの俺に、海なんてものとの縁はなかった。そしてプールで泳いだ記憶も、確か小学校の時のもので。平泳ぎでプールの端から端まで泳げた気はするけれど、なにしろ10年も前の話だ。  そんな俺に、熊谷さんが真剣な顔になって言ってくる。 「いいかい一月くん、海ってものは流れるから!」 「え、さすがにそれは知ってます……」 「気をつけようねってことだよ~! 君、雪山でも遭難しちゃってたし」 「あれはスノーモービルの事故で、俺的には不可抗力で……」  とはいえすぐに対処できなかった俺にも落ち度はある気がして、反論の声は小さくなる。 「もしかして一月くんって不幸体質!? スバルの役柄が染みついてるんじゃないの?」  熊谷さんは楽しそうに笑いながら言ってくる。そうやって俺をからかうところは、兄貴分の羽田さんにそっくりだ。 (それにしても、今度は羽田さんと南国ロケか……)  雪山での記憶が俺の胸をざわつかせた。  不安なところへ彼が助けにきてくれた時の、圧倒的な心強さ。心地よい体温、キスの甘さ。またあんなことがあったら、俺はきっと自分という枠を保ちきれなくなる。もっとあなたのそばにいたいと、あの人にすがってしまう気がした。  たぶんそこは仕事上、踏み越えてはいけない部分だ。 (大丈夫、俺さえしっかりしてれば……そうすれば何も起こらないはずだ!)  スタジオの少し(ほこり)っぽい空気を胸に吸い、混乱する自分を落ち着かせる。  その時離れたドアから入ってきた羽田さんは、相変わらずのカッコよさでヒーロースーツを身にまとっていた。 *  ロケ先であるピピ諸島は、タイのプーケットから船で2時間ほどのところにある風光明媚(ふうこうめいび)な島々だ。太陽を反射するエメラルドグリーンの海と白い砂浜が美しい。海に接した切り立った崖も、映像映えするモチーフだ。  この景色を目当てに、世界中からいろいろな映画のロケ隊がやってきているという。  撮影のために借り切った大型客船のデッキから、俺はそんな景色を眺めていた。確かに景色はいい。けれども太陽が近すぎる。  ベタベタする潮風が、暑さからくる不快感を何倍にも増幅させていた。  俺はペットボトルの水を飲みながら、太陽が動いた分だけ動くビーチパラソルの影の中へ、自分の体を移動させた。日焼けしても困るから、なるべく直射日光は浴びたくない。けれど演技中の日焼けは避けられないわけで、すでに日を浴びた脳天がヒリヒリしていた。  マネージャーは早々に俺を裏切って、冷房の効いた船内に引っ込んでいる。考えてみると、こんな過酷な撮影は初めてだ。  そういえば助監督がこの海外ロケをプロデューサーの厚意みたいに言っていたけれど、むしろ嫌がらせかもしれない。その証拠に、プロデューサー自身は今回のロケに同行していなかった。 「何待ち?」  ふいに聞かれて顔を上げると、ヒーロースーツの上をはだけた羽田さんがそこに立っていた。厚みのある背中に浮かんだ汗が、引き締まったウエストまで背骨を伝って流れていく。  俺は呼吸する筋肉の美しさに見惚れながら、ビーチチェアの上で身を起こした。 「それが今、監督と演出家で()めてるみたいです」  さっきから暑いデッキの上で、2人は喧々(けんけん)がくがくの議論を戦わせていた。俺のいる場所からも遠巻きに、その様子が見えている。 「何を揉めてるんだ?」 「シーン18だったかな? スバルが怪人を追っていくところで、演出プランの変更があるみたいで……」  台本では、俺の演じるスバルは怪人をデッキの端まで追い詰めるが、怪人は海に飛び込んで逃げていってしまう。こいつがものすごく厄介な敵で、ここで取り逃がしたことは大きな痛手となるわけだが、スバルがそうやすやすと取り逃がすだろうか。  本来の彼の性格からいえば、自分も海に飛び込んでまで追いかけていくかもしれない。それに演出的にも、主人公が飛び込んだ方が間違いなく格好がつく。  そういうわけで、俺に飛び込みができるかどうか、さっき監督から打診があった。  そのことを説明すると、羽田さんが顔をしかめた。 「飛び込むって結構高いぞ!? 下まで4、5メートルはある」 「でもまあ、ただ飛び込むだけなら……」  もちろん俺に飛び込みの経験はない。けれどスバルになりきってしまえば、自然と飛び込める気がしていた。 「お前じゃちょっと心配だよなあ……」  羽田さんが腕組みしながら言ってくる。 「俺は自信があります」 「その自信、どっから沸いてくるんだよ」 「自信に根拠なんてありませんけど……でも、スバルにできることは俺にもできるんです。今までだってそうでした」  そんな俺を、羽田さんは心底心配そうに見つめた。

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