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37,前触れ
「お前のそういうとこ、本当にすごいと思うけどさ……お前はドラマの登場人物とは違う。死にかけても宇宙生命体が命を与えてくれたりはしないんだ」
そんなことは分かっている。分かっているけれど……。
「それでも、演じるのが俺の役目です」
俺は息をつき、目をつぶって邪念を追い払う。胸の中に生まれてしまった不安を、なんとかして打ち消したかった。不安は演技の邪魔になる。
そんな時、無防備な肩に触れられた。
ハッとして目を開けると、羽田さんがデッキに片ひざを突き、ビーチチェアに座った俺を見上げている。
「一月、あんま無茶すんなよ。ちょっとでも不安があるなら、そのことちゃんと周りに言え」
自信があるって言ってるのに、羽田さんにはその奥にある不安を見抜かれていた。俺は思わず言葉に詰まり、目の前の優しげな瞳にすがりたくなる。
(……こら、何考えてる!)
心の中で自分を叱 り、俺は座っていたビーチチェアから立ち上がった。
しばらく寝転ぶような体勢で座っていたせいで、なまってしまっていた手足をしっかり伸ばす。
「大丈夫です! 今回はスキー場の時とは違って1人じゃありません。熊谷さんを追って飛び込む形ですし、飛び込んだあとはすぐにボートが引き上げてくれます」
冷静に考えれば不安材料はないはずだ。あとは俺が普段通り、スバルに同化できるかどうかだけ。
「俺はスバルで、あなたと同じユーマニオンレッドです!」
「一月……」
羽田さんが俺に語りかけようとしたところで、向こうで話していた監督がまた俺のところにやってきた。
「スバルくん、やっぱり飛び込みまで頼むよ!」
「分かりました!」
「よし、しっかりと準備して、それからカメラを回そう!」
監督に頷き返し、そっと拳を握る。停滞していた現場がまた動き始めた。
それから俺は衣装を脱ぎ、何度か飛び込む練習をさせてもらった。
「なんで一月が飛び込みなんか……」
冷房の効いた船室から出てきたマネージャーが、今さらになってブツブツ言う。
「そんなの仕事だからに決まってる」
濡れた体をマネージャーに拭かれながら、俺は南国の空を仰いだ。
初めて入った海は思っていたより塩気が多くて、目も体もピリピリする。
上空では名前も知らない大きな鳥が、優雅に羽を広げていた。
あいつらから見たら何ジタバタやっているんだって感じなんだろうけど、こっちも生きてくのに必死なんだ。俺にとって、演じることは生きることだから。
そんなことを思っていると、マネージャーが見透かすように笑った。
「ガキだと思ってたのによぉ、いつの間にかすっかり男になったよな」
「何、急に……」
「別に?」
白い歯を見せて笑われる。
「なーんか寂しいけど、これが現実?」
マネージャーから見た俺は、最近巣の周りを飛ぶようになったひな鳥みたいなものなんだろうか。
そこへまた監督がやってくる。
「スバルくん、飛び込みはもう大丈夫そうだね?」
「はい」
「じゃあ準備ができたら本番だ」
周りに目を向けると、怪人役の熊谷さんはすでに着ぐるみに着替え、準備運動をしていた。他のみんなもそれぞれの持ち場についている。
俺も髪を乾かし、衣装に着替えて立ち位置に立つ。メインのカメラが首を振り、俺に向けられた。
とその時、生ぬるい水滴が頬を打った。
(え……?)
さっきまで絵に描いたような晴れ空だったのに、いつの間にか小雨が降りだしていた。
遠くの海上に立ちのぼる黒雲を見て、胸に不安がよぎる。雪山での事故の時も、小雪が前触れだった。
「……天気、持ちますかね?」
誰かの声が耳に届く。
「このシーンさえ撮り終われば、今日はお終いだから!」
少しのんびりしていた現場の空気が緊張を帯びたものに変わった。
カメラマンの後ろで腕組みしている羽田さんが見える。
俺が飛び込むこと、羽田さんは納得しているんだろうか。さっきの会話が中途半端に終わってしまっていたことが、ふいに気になりだす。湿り始めた空気が重かった。
(いや、今は演技に集中しよう!)
俺は衣装のポケットに入れていた指輪を握り、息をついた。それから思い立って、羽田さんの方へ歩いていく。
「あれ、一月くん?」
「すみません、一瞬だけ」
俺の行動を不思議がる監督とスタッフさんたちに謝り、カメラの脇をすり抜けて羽田さんの前に立った。
「どうした?」
彼は片眉を上げる。
「これ、預かっていてください。濡れるといけないから」
深紅の指輪を手の中に握ったまま、羽田さんの腰の辺りに押しつけた。
「……?」
彼はそれを受け取り、俺と同じように手の中に握り込む。これをマネージャーでなく羽田さんに渡した意味を、この人は理解してくれているんだろうか。
「じゃあ……行ってきます」
「ああ、行ってこい」
(よかった……)
この人の口からその言葉を聞ければ、俺は演技に集中できる。
(もう大丈夫だ、俺はスバルになれる!)
立ち位置に戻って背筋を伸ばす。肺の奥まで息を吸い、頭がすっと冴 えていくのを感じた。
「いいかな? スバルくん」
監督に向かってはっきりと頷いてみせる。
スタートの合図と同時に、俺を取り巻く空気の色が変わった。
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