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38,群青色

『くそっ、逃がすかッ!』  デッキを走り、立ち入り禁止の柵を跳び越え、俺は怪人に飛びかかっていく。あと一歩のところで、敵の尻尾をつかみ損ねた。 (ちっ! つかめたと思ったのに!)  バランスを崩した俺は、受け身を取って甲板を転がる。その間に怪人が、船の積み荷をこちらへ投げてきた。 『うわっ、あっ、ちょっ! それっ!』  投げつけられる木箱を避け、それが爆発するのを見て爆音から耳を庇う。この怪人が手に触れたものは、なんでも爆発物になってしまうのだ。  怪人はその先にある船の積み荷もなぎ倒して、さらにデッキの先へと逃げていった。けれども逃げる先は船尾の方向。デッキはそこでお終いだ。 『残念、そっちは行き止まり!』  俺はニヤリと笑って変身ブレスを構える。ところがこちらを振り向いた怪人は、もう一度船尾に向き直り、手すりから下を見た。 『えっ、まさか!』  ここでスバルは、怪人が海に飛び込もうとしていることに気づく。変身している時間はない。生身のまま駆けだして、両腕で怪人に飛びつこうとした。  しかし怪人は俺の指先をかすめ、海へと飛び込んでしまう。 『くっ、逃がすかっ!』  俺もなだれ込むようにして、手すりから海へとジャンプした。  迷いはなかった。落下しながら、怪人の足首めがけて腕を伸ばす。 (捕まえた!)  その手応えに、胸がドクンと高鳴った。けれどもすぐ、海面が目の前に迫ってきて――。 「――っ、ぷはッ!」  海中に投げ出された俺は、波に揉まれて握っていた足首を放してしまった。  水を掻いて水面に浮上し、逃げていった怪人の姿を探す。 (どこ、どこ行った!?)  波に呑まれそうになりながら辺りを見渡し、ボートに引き上げられていく怪人――いや、熊谷さんの姿を見つけた。  遠くで監督のカットをかける声が響く。  それでふっと体の力が抜けてしまった。役が抜けて元の自分に戻るまで、若干のタイムラグがある。 (俺は……)  揺らぎながら昇っていく気泡を眺め、さっきまでのことを思い返した。  俺は飛べた。まっすぐに、敵へ向かって手を伸ばせた。 (羽田さん、見てましたか? 見てましたよね!?)  誇らしい気持ちが、血の昂ぶりとなって指先まで伝わっていく。  演技はきっと完璧だった。あとは力を抜き水面に浮かべば、待機しているボートが俺を引き上げてくれる。  俺は明るい水面へ、引き寄せられるように浮上していった――。  ところが。水面に顔を出したところで、大きな波が襲いかかってきた。 (え……!?)  悪魔が叫ぶような水音とともに、視界全体が群青色に染まる。  何者かに足首をつかまれる、そんな感覚があった。怪人のマスクが脳裏に浮かび、恐怖が生身の体を駆け抜けた。  引きずり込まれる、波に呑まれて海の底へ……。  水面が遠のき、息が苦しくなっていく。肺がメリメリと音をたて押しつぶされるみたいだった。 (マズい、このままだと溺れ死ぬ!)  水を掻き、遠い水面に向かって手を伸ばす。スバルでいる間はこの手に手応えを感じられたのに、今はぬるぬるした海水が指をすり抜けていくばかりだった。 (俺は、ユーマニオンレッドのスバルなんだ! こんなところで死ぬわけがない!)  その思いひとつで自分を奮い立たせる。けれども背後から忍び寄る絶望が、みるみる俺を埋め尽くしていった。  俺はちっぽけな人間だ。社会に馴染めない不器用な……。せっかくつかんだヒーロー役もちょくちょく失敗するし、ロケに行けば事故に遭う。  きっと自分で引き寄せているんだ。分不相応な夢なんか持ったりしたから……。  だって俺は引きこもりで、子供の頃はろくに学校にも行けなかった。  思えばいじめに遭っていたわけでもなんでもない。単に神経過敏で、臆病な人間だったんだ。演技に熱中したのも、駄目な自分から逃れるためだった。  そんな俺がユーマニオンシリーズの主演の座をつかみ、憧れていた場所に立つことができた。  奇跡だった。これ以上何かを望むなんて、贅沢すぎるに違いない……。  約20年の人生を振り返り、諦めの境地に至る。  けれど俺にはもうひとつ、もうひとつだけ諦められない思いがあった。 (羽田さん……。あの人に、このモヤモヤした気持ちをぶつけずに終わるなんて!)  水の中でも、目から涙が(あふ)れ出したのが分かった。 (どうかもう一度、俺に力を貸してほしい、ユーマニオンレッド!)  幻のヒーローに、俺は助けを求める。  俺はずっとヒーローになりたかった。けれどもそれ以上にヒーローを求めていた。  ヒーローは心の支えだ。ピンチの時に助けてくれる、圧倒的な存在。  そんな存在が世界のどこかにいると信じれば、弱い俺も立ち上がることができる。 (どうか、俺を見つけて!)  闇の中に光を探し、祈る思いで右手を伸ばす。けれど流れに呑み込まれ、今はどちらが水面なのかも分からなかった。  光は、希望はどっちにある!?  と、右手にはっきりとした手応えを感じた。 (え――?)  誰かの手が、俺の右手を強くつかんでくる。 (ユーマニオンレッド……いや、この手は!)  羽田さんだった。見覚えのある大きな手、引き寄せる腕の強さで確信する。  群青色の水の向こうに、その人の顔が見えた。  遠のいていた意識が、急速に浮上する。  羽田さんが来てくれた、それだけで胸がいっぱいだった。そこに逞しい命がある。その事実に勇気づけられる。  ――一月、行くぞ!  羽田さんの目がそう言った。  彼が顎を向けた先に、光の粒が漂ってみえた。  あっちが水面だ!  俺は羽田さんの腕に腰を抱かれ、一緒になって水を掻いた。  そして……。

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