38 / 48
38,群青色
『くそっ、逃がすかッ!』
デッキを走り、立ち入り禁止の柵を跳び越え、俺は怪人に飛びかかっていく。あと一歩のところで、敵の尻尾をつかみ損ねた。
(ちっ! つかめたと思ったのに!)
バランスを崩した俺は、受け身を取って甲板を転がる。その間に怪人が、船の積み荷をこちらへ投げてきた。
『うわっ、あっ、ちょっ! それっ!』
投げつけられる木箱を避け、それが爆発するのを見て爆音から耳を庇う。この怪人が手に触れたものは、なんでも爆発物になってしまうのだ。
怪人はその先にある船の積み荷もなぎ倒して、さらにデッキの先へと逃げていった。けれども逃げる先は船尾の方向。デッキはそこでお終いだ。
『残念、そっちは行き止まり!』
俺はニヤリと笑って変身ブレスを構える。ところがこちらを振り向いた怪人は、もう一度船尾に向き直り、手すりから下を見た。
『えっ、まさか!』
ここでスバルは、怪人が海に飛び込もうとしていることに気づく。変身している時間はない。生身のまま駆けだして、両腕で怪人に飛びつこうとした。
しかし怪人は俺の指先をかすめ、海へと飛び込んでしまう。
『くっ、逃がすかっ!』
俺もなだれ込むようにして、手すりから海へとジャンプした。
迷いはなかった。落下しながら、怪人の足首めがけて腕を伸ばす。
(捕まえた!)
その手応えに、胸がドクンと高鳴った。けれどもすぐ、海面が目の前に迫ってきて――。
「――っ、ぷはッ!」
海中に投げ出された俺は、波に揉まれて握っていた足首を放してしまった。
水を掻いて水面に浮上し、逃げていった怪人の姿を探す。
(どこ、どこ行った!?)
波に呑まれそうになりながら辺りを見渡し、ボートに引き上げられていく怪人――いや、熊谷さんの姿を見つけた。
遠くで監督のカットをかける声が響く。
それでふっと体の力が抜けてしまった。役が抜けて元の自分に戻るまで、若干のタイムラグがある。
(俺は……)
揺らぎながら昇っていく気泡を眺め、さっきまでのことを思い返した。
俺は飛べた。まっすぐに、敵へ向かって手を伸ばせた。
(羽田さん、見てましたか? 見てましたよね!?)
誇らしい気持ちが、血の昂ぶりとなって指先まで伝わっていく。
演技はきっと完璧だった。あとは力を抜き水面に浮かべば、待機しているボートが俺を引き上げてくれる。
俺は明るい水面へ、引き寄せられるように浮上していった――。
ところが。水面に顔を出したところで、大きな波が襲いかかってきた。
(え……!?)
悪魔が叫ぶような水音とともに、視界全体が群青色に染まる。
何者かに足首をつかまれる、そんな感覚があった。怪人のマスクが脳裏に浮かび、恐怖が生身の体を駆け抜けた。
引きずり込まれる、波に呑まれて海の底へ……。
水面が遠のき、息が苦しくなっていく。肺がメリメリと音をたて押しつぶされるみたいだった。
(マズい、このままだと溺れ死ぬ!)
水を掻き、遠い水面に向かって手を伸ばす。スバルでいる間はこの手に手応えを感じられたのに、今はぬるぬるした海水が指をすり抜けていくばかりだった。
(俺は、ユーマニオンレッドのスバルなんだ! こんなところで死ぬわけがない!)
その思いひとつで自分を奮い立たせる。けれども背後から忍び寄る絶望が、みるみる俺を埋め尽くしていった。
俺はちっぽけな人間だ。社会に馴染めない不器用な……。せっかくつかんだヒーロー役もちょくちょく失敗するし、ロケに行けば事故に遭う。
きっと自分で引き寄せているんだ。分不相応な夢なんか持ったりしたから……。
だって俺は引きこもりで、子供の頃はろくに学校にも行けなかった。
思えばいじめに遭っていたわけでもなんでもない。単に神経過敏で、臆病な人間だったんだ。演技に熱中したのも、駄目な自分から逃れるためだった。
そんな俺がユーマニオンシリーズの主演の座をつかみ、憧れていた場所に立つことができた。
奇跡だった。これ以上何かを望むなんて、贅沢すぎるに違いない……。
約20年の人生を振り返り、諦めの境地に至る。
けれど俺にはもうひとつ、もうひとつだけ諦められない思いがあった。
(羽田さん……。あの人に、このモヤモヤした気持ちをぶつけずに終わるなんて!)
水の中でも、目から涙が溢 れ出したのが分かった。
(どうかもう一度、俺に力を貸してほしい、ユーマニオンレッド!)
幻のヒーローに、俺は助けを求める。
俺はずっとヒーローになりたかった。けれどもそれ以上にヒーローを求めていた。
ヒーローは心の支えだ。ピンチの時に助けてくれる、圧倒的な存在。
そんな存在が世界のどこかにいると信じれば、弱い俺も立ち上がることができる。
(どうか、俺を見つけて!)
闇の中に光を探し、祈る思いで右手を伸ばす。けれど流れに呑み込まれ、今はどちらが水面なのかも分からなかった。
光は、希望はどっちにある!?
と、右手にはっきりとした手応えを感じた。
(え――?)
誰かの手が、俺の右手を強くつかんでくる。
(ユーマニオンレッド……いや、この手は!)
羽田さんだった。見覚えのある大きな手、引き寄せる腕の強さで確信する。
群青色の水の向こうに、その人の顔が見えた。
遠のいていた意識が、急速に浮上する。
羽田さんが来てくれた、それだけで胸がいっぱいだった。そこに逞しい命がある。その事実に勇気づけられる。
――一月、行くぞ!
羽田さんの目がそう言った。
彼が顎を向けた先に、光の粒が漂ってみえた。
あっちが水面だ!
俺は羽田さんの腕に腰を抱かれ、一緒になって水を掻いた。
そして……。
ともだちにシェアしよう!