40 / 48
40,未来へ
唇は濡れてひんやりしているのに、その内側は信じられないくらいに熱かった。
撮影所の裏でのキスとも、雪山でのそれとも違う生々しいキス。唇の裏側を遠慮なく吸われ、俺は自分が求められているという事実を体で理解した。
(こんなふうにしてもいいんだ……!)
ずぶ濡れになりながら交わすキスが、熱く心を溶かしていく。
「羽田さん俺っ……あなたが好きです!」
素直すぎる言葉が口を突いて出た。
「こら、俺の理性をはぎ取りにかかるな!」
「羽田さんは」
「頭からバリバリ食っちまいたいくらいには好きだな! なのになんでここが海の上なのか、ベッドどころか地面すらねえ!」
彼の言う通り、俺たちは海に突き出た岩場に身を預ける形で抱き合っている。これ以上何かできそうな状態ではなかった。
(これ以上の何かってなんなんだ!?)
頭の中に展開される、赤裸々な妄想に驚いた。
「待ってください! 俺はそこまで期待してません」
目の前にある羽田さんの顔を、思わず腕を突っ張って押しのける。
「いや、ちょっとは期待しろよ! まさかこの俺サマをその気にさせといて、中学生みたいなオツキアイを期待してるんじゃないよな!?」
「そ……それは……」
どうなんだろう。何をどこまで求めるべきなのか、自分でもよく分からない。
「……まあ、一月がそうしたいならそれでもいいけど」
「えっ、いいんですか?」
「こっから無事に帰れればの話だな」
「それはそうでした……」
2人同時に雨の海を見回した。
「まあ、無事に帰れる前提で話そう」
羽田さんが俺の右手をつかまえて、手のひらに短いキスを落とす。
「俺たちがどうこうなるには、現状いろいろと障害があるわな」
「そうですね……。仕事が仕事なだけに」
「だな。現場の空気や、ユーマニオンのイメージにも関わるし」
「はい……」
「あと、お前んとこの事務所からクレームが来て、俺が番組から外されるかもしれない」
「えっ、それは困ります!」
そこまで思い至らなかったけれど、そういえば前にもマネージャーから事務所の力で羽田さんを外すと脅されていた。
彼が顔をしかめる。
「俺だって困るよ! 好きでやってる仕事だし。それにお前が他のやつと組むのは、ちょっと気に入らねえよな」
「それは、俺も嫌だ……」
羽田さんのユーマニオンレッドを見ていたい。いつもその姿に惚れ惚れしながら、俺もそれに見合う演技をしようという気持ちになっていた。
スーツアクターが羽田さんじゃなかったら、きっと俺の演技も違ってしまう。
「あなたとじゃなきゃ無理だ……」
「うん、俺ももうお前とじゃなきゃ無理」
羽田さんが笑いながら、雨に濡れる俺の頬を指で拭った。
それからもう一度、唇に短いキスをする。
「バレないようにしなきゃな」
「はい」
「ネクストの撮影が終わったら、同じマンションにでも部屋を借りて行き来しようか」
「ん、それはつまり……」
半同棲 みたいなものなのか。羽田さんの頭の中の、駆け足な未来図に驚いた。
「それ、本気で言ってます?」
「逆に、お前は本気じゃないわけ?」
「えっ……」
髪を掻き上げながら、からかうように口角を上げるその表情に惹きつけられる。
「俺の人生設計には、もうお前が組み込まれているんだけどな」
この人にこの顔で誘われて、断れる人間なんていないと思う。今の羽田さんはヒーローで、その上、水も滴るいい男だ。
俺はこの人と、それから自分の欲望に素直になってみることにする。
「分かりました。近所に住むなら、本棚に俺のグラビアを飾るのはやめてください」
「え……分かったよ、本物がいればまあ十分だよな」
「あと、あのDVDは返します」
「あーあれか。オーケー、そっちも本物の方がいいよな?」
際どすぎる冗談に俺が黙ったところで、羽田さんがまた周りの海へと目を向けた。
「じゃあ、その未来を実現させるために、現状をどうにかするか」
「どうにかって……」
「ここで助けを待つか、泳いで陸地を目指すかだが……。前者は、結構危ういかもな」
羽田さんが、腰から下を濡らす海水面に目を落とす。
降りしきる雨のせいか潮流の関係か、さっきから水面が徐々に上がってきていた。このまま岩に張り付いていても、安全ではなさそうだ。
「泳ぎましょう!」
俺は意を決し、一番近くに見える小島を睨んだ。
あそこまで2キロか3キロか。海を隔てていて距離がつかみにくい。けれども頑張って泳げない距離ではなさそうだ。
「一月がいけるなら行こう」
羽田さんも同じ方向へ目を向けた。
「はい!」
「それじゃあ……」
着ているものを脱げるだけ脱ぎ、俺たちは2人一緒に泳ぎだす。
「俺の後ろから来い!」
潮流から俺を守るようにして、羽田さんが先に泳ぎを進めてくれた。
こんなに長い距離を泳いだことはないけれど、きっと泳げないことはない。そう考え自分を励ます。
それからふと、河原のジョギングに似ていると思った。きつくても足を止めさえしなければ、体力が続く限りどこまででも進める。しかも前を行くのは俺のヒーロー羽田さんだ。何も不安はない。
真っ暗で底の見えなかった海の下に、海底の砂が見えてくる。ピピ諸島の美しい砂浜を作る、白く輝く砂粒だ。
顔を上げると雨のカーテンの向こうに、目指す小島が迫っていた。
「もう少しだ!」
羽田さんの声が励ます。
俺たちは島の切り立った岩場を迂回 して、なだらかな砂浜の方へと回り込んでいった。
岩肌に打ちつける潮の飛沫 が雨に交じって顔を打った、その時だった。
(……えっ!?)
泳ぐ体を包む水の流れが、突然逆向きに変わる。足の下で海水が渦を巻いていた。
泳ぎ疲れた体が、海中に引きずり込まれる。
「――一月っ!?」
名前を呼ぶ声が、水を隔てて歪んで聞こえた。
(羽田さん!)
水中で引き寄せてくる逞しい腕を感じ、次の瞬間、胸に抱き寄せられる。
けれども彼も一緒に渦に呑まれてしまって――。
(わああっ!)
体がぐるりと回転したあと、強い衝撃に襲われた。抱きしめられている腕の中でハッとする。
「ぐっ……!」
俺の体に痛みはない、羽田さんが俺を庇って岩場に体を打ちつけていた。
「……っ、羽田さん!?」
水の中、悲鳴は泡になって消えていく。
羽田さんは俺を抱き背中を丸めたまま、動こうとしなかった。
ともだちにシェアしよう!