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40,未来へ

 唇は濡れてひんやりしているのに、その内側は信じられないくらいに熱かった。  撮影所の裏でのキスとも、雪山でのそれとも違う生々しいキス。唇の裏側を遠慮なく吸われ、俺は自分が求められているという事実を体で理解した。 (こんなふうにしてもいいんだ……!)  ずぶ濡れになりながら交わすキスが、熱く心を溶かしていく。 「羽田さん俺っ……あなたが好きです!」  素直すぎる言葉が口を突いて出た。 「こら、俺の理性をはぎ取りにかかるな!」 「羽田さんは」 「頭からバリバリ食っちまいたいくらいには好きだな! なのになんでここが海の上なのか、ベッドどころか地面すらねえ!」  彼の言う通り、俺たちは海に突き出た岩場に身を預ける形で抱き合っている。これ以上何かできそうな状態ではなかった。 (これ以上の何かってなんなんだ!?)  頭の中に展開される、赤裸々な妄想に驚いた。 「待ってください! 俺はそこまで期待してません」  目の前にある羽田さんの顔を、思わず腕を突っ張って押しのける。 「いや、ちょっとは期待しろよ! まさかこの俺サマをその気にさせといて、中学生みたいなオツキアイを期待してるんじゃないよな!?」 「そ……それは……」  どうなんだろう。何をどこまで求めるべきなのか、自分でもよく分からない。 「……まあ、一月がそうしたいならそれでもいいけど」 「えっ、いいんですか?」 「こっから無事に帰れればの話だな」 「それはそうでした……」  2人同時に雨の海を見回した。 「まあ、無事に帰れる前提で話そう」  羽田さんが俺の右手をつかまえて、手のひらに短いキスを落とす。 「俺たちがどうこうなるには、現状いろいろと障害があるわな」 「そうですね……。仕事が仕事なだけに」 「だな。現場の空気や、ユーマニオンのイメージにも関わるし」 「はい……」 「あと、お前んとこの事務所からクレームが来て、俺が番組から外されるかもしれない」 「えっ、それは困ります!」  そこまで思い至らなかったけれど、そういえば前にもマネージャーから事務所の力で羽田さんを外すと脅されていた。  彼が顔をしかめる。 「俺だって困るよ! 好きでやってる仕事だし。それにお前が他のやつと組むのは、ちょっと気に入らねえよな」 「それは、俺も嫌だ……」  羽田さんのユーマニオンレッドを見ていたい。いつもその姿に惚れ惚れしながら、俺もそれに見合う演技をしようという気持ちになっていた。  スーツアクターが羽田さんじゃなかったら、きっと俺の演技も違ってしまう。 「あなたとじゃなきゃ無理だ……」 「うん、俺ももうお前とじゃなきゃ無理」  羽田さんが笑いながら、雨に濡れる俺の頬を指で拭った。  それからもう一度、唇に短いキスをする。 「バレないようにしなきゃな」 「はい」 「ネクストの撮影が終わったら、同じマンションにでも部屋を借りて行き来しようか」 「ん、それはつまり……」  半同棲(はんどうせい)みたいなものなのか。羽田さんの頭の中の、駆け足な未来図に驚いた。 「それ、本気で言ってます?」 「逆に、お前は本気じゃないわけ?」 「えっ……」  髪を掻き上げながら、からかうように口角を上げるその表情に惹きつけられる。 「俺の人生設計には、もうお前が組み込まれているんだけどな」  この人にこの顔で誘われて、断れる人間なんていないと思う。今の羽田さんはヒーローで、その上、水も滴るいい男だ。  俺はこの人と、それから自分の欲望に素直になってみることにする。 「分かりました。近所に住むなら、本棚に俺のグラビアを飾るのはやめてください」 「え……分かったよ、本物がいればまあ十分だよな」 「あと、あのDVDは返します」 「あーあれか。オーケー、そっちも本物の方がいいよな?」  際どすぎる冗談に俺が黙ったところで、羽田さんがまた周りの海へと目を向けた。 「じゃあ、その未来を実現させるために、現状をどうにかするか」 「どうにかって……」 「ここで助けを待つか、泳いで陸地を目指すかだが……。前者は、結構危ういかもな」  羽田さんが、腰から下を濡らす海水面に目を落とす。  降りしきる雨のせいか潮流の関係か、さっきから水面が徐々に上がってきていた。このまま岩に張り付いていても、安全ではなさそうだ。 「泳ぎましょう!」  俺は意を決し、一番近くに見える小島を睨んだ。  あそこまで2キロか3キロか。海を隔てていて距離がつかみにくい。けれども頑張って泳げない距離ではなさそうだ。 「一月がいけるなら行こう」  羽田さんも同じ方向へ目を向けた。 「はい!」 「それじゃあ……」  着ているものを脱げるだけ脱ぎ、俺たちは2人一緒に泳ぎだす。 「俺の後ろから来い!」  潮流から俺を守るようにして、羽田さんが先に泳ぎを進めてくれた。  こんなに長い距離を泳いだことはないけれど、きっと泳げないことはない。そう考え自分を励ます。  それからふと、河原のジョギングに似ていると思った。きつくても足を止めさえしなければ、体力が続く限りどこまででも進める。しかも前を行くのは俺のヒーロー羽田さんだ。何も不安はない。  真っ暗で底の見えなかった海の下に、海底の砂が見えてくる。ピピ諸島の美しい砂浜を作る、白く輝く砂粒だ。  顔を上げると雨のカーテンの向こうに、目指す小島が迫っていた。 「もう少しだ!」  羽田さんの声が励ます。  俺たちは島の切り立った岩場を迂回(うかい)して、なだらかな砂浜の方へと回り込んでいった。  岩肌に打ちつける潮の飛沫(しぶき)が雨に交じって顔を打った、その時だった。 (……えっ!?)  泳ぐ体を包む水の流れが、突然逆向きに変わる。足の下で海水が渦を巻いていた。  泳ぎ疲れた体が、海中に引きずり込まれる。 「――一月っ!?」  名前を呼ぶ声が、水を隔てて歪んで聞こえた。 (羽田さん!)  水中で引き寄せてくる逞しい腕を感じ、次の瞬間、胸に抱き寄せられる。  けれども彼も一緒に渦に呑まれてしまって――。 (わああっ!)  体がぐるりと回転したあと、強い衝撃に襲われた。抱きしめられている腕の中でハッとする。 「ぐっ……!」  俺の体に痛みはない、羽田さんが俺を庇って岩場に体を打ちつけていた。 「……っ、羽田さん!?」  水の中、悲鳴は泡になって消えていく。  羽田さんは俺を抱き背中を丸めたまま、動こうとしなかった。

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