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41,唇の温度
(えっ、まさか、気を失ってる!?)
俺は彼の体を抱え、そばにある岩肌になんとか張り付く。岩場に足がついたのには助かった。
けれどもそこから上へは、ほとんど垂直の崖に阻まれて進めない。
「羽田さん、羽田さん!?」
俺はパニックになりながら、彼を引きずるようにして岩場を進んだ。自分より厚みのある羽田さんの体は重い。
裸足の足が、何度も滑ってバランスを崩しそうになった。
「ちょっと……返事してください困ります!」
こんな場所にたったひとり、取り残されたみたいで恐ろしい。けど、俺がしっかりしなきゃ。
半年前のオーディションの時と同じように、俺は羽田さんの運命を背負っていた。
ようやく砂浜にたどり着き、彼の体を横たえた。パッと見大きな外傷はなさそうだけれども、辺りが暗くてよく分からなかった。
俺は彼の裸の胸に耳をつける。波の音と雨音で、心臓の音が聞こえない。呼吸は――。
「嘘、待って――」
胸板が上下することはなく、おそらく息もしていなかった。
(どうしよう、どうすればいい!? 俺は……俺は……)
色のない端正な顔を見つめたまま、自分の奥歯がカタカタと鳴る音を聞いた。
(ぼんやりしてたら駄目だ、羽田さんを助けなきゃ!)
砂の上にひざを突き、力を失った彼の大きな手を握る。スバルならどうする? その前に演じたドラマの役柄なら……。
駄目だ、体が動かない。こんな時に役柄になりきれるはずがなかった。絶望しながら空を仰ぐ。その顔に雨粒が容赦なく打ちつけた。
(今ここには、上岡一月しかいないんだ!)
空に向かって荒い息を吐き、俺はその事実を受け止める。人見知りで不器用で、情けなくて運まで悪い自分。それでもこの人を愛している。
(人工呼吸? 心臓マッサージ!?)
テレビか何かで見た、曖昧な知識しかなかった。でもやるしかない、今羽田さんを助けられるのは俺だけなんだから。
「羽田さん、どうか……俺を見捨てないでください!」
彼の顎を持ち上げ、気道を確保する。両腕を突っ張り、上からまっすぐ胸板に体重をかけた。
「1、2、3……」
心臓マッサージを行いながら、彼の彫りの深い顔を見る。まぶたは固く閉じられたままだった。
30まで数えて、口から肺に向かって息を吹き込む。
胸を押すたび、唇に触れるたび、想いが溢れて苦しかった。
「大好きだから、帰ってきてください!」
触れ合う唇の感触は、岩場でキスした時と変わらない。まだ体温が残っている、そのことに勇気づけられた。
そしてもう一度、愛しい唇に息を吹き込んだ時――。
「――ごほごほっ!」
羽田さんが水を吐き、息を吹き返した。
(神様――!)
俺はそのまま砂浜に倒れ込みそうになる。羽田さんは少しの間苦しげな息を繰り返し、そして自ら上体を起こした。
「一月……?」
砂の上であぐらを掻いた羽田さんに、笑いながら頬を撫でられる。
「お前……随分ひどい格好してるなあ……」
俺は上半身裸で全身ずぶ濡れで、もともと癖のある髪は水を吸ってぐちゃぐちゃだ。目元も泣いたせいで腫れているかもしれない。
「ちょっとこれ、ヤバいだろ」
頭皮をくすぐるようにして、指で髪を梳 かれる。
「……でも、すごくきれいだ」
サイドの髪を耳にかけ、耳たぶの辺りにキスをされた。触れてくるだけの優しいキスがくすぐったい。
「羽田さん今、息してなかったの気づいてます?」
「そうなのか、どうりで天国にいるみたいな気分だった」
「天国って……こっちは死ぬ思いだったんですけど……!」
ようやく安心して、口からため息がこぼれた。実際に死にかけていたのは羽田さんなのに、俺の方がよっぽど死に直面していたように感じる。
あんな甘い未来を語っておいて、俺をひとりぼっちの世界に投げ出すなんてひどすぎる。羽田さんのいない世界はヒーローに見捨てられた世界だ。
「そっか、悪かったな」
彼はあっけらかんと笑った。
「いい夢でも見てたんですか?」
「いい夢っていうか……昔の、幸せな記憶?」
彼は懐かしそうに瞬きしたあと、空に向かって伸びをする。いつの間に雨が止んだのか、そこには満天の星が輝いていた。
「なんですか? 幸せな記憶って」
「あー、うん。せっかく心配してくれてる時に、お前の夢じゃなくてごめんな」
「そういうことは言ってませんけど……」
でも気になる。考えてみると俺は、羽田さんの過去をほとんど知らなかった。
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