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第七節気 立夏 蚯蚓出(みみずいづる)

 ――解せぬ。  徒歩で三時間ばかり歩いた山道。その先にあったのは、白い河原と澄んだ水の流れる川だった。キャッキャうふふとはしゃいで釣り糸を垂れる少年二人を横目で見つつ、暁治(あきはる)は岩のひとつにぐてりと腰をおろした。  なんであいつらはあんなに元気なんだ。 「ややややっ、暁治殿っ。ご準備はされないのですかなっ?」 「そんな気力もない……」  こちらが気になるのか、落ち着きない口調で尋ねてくる河太郎を、しっしっと手を振って追い払う。しばらくぼぉっとしていたものの、かたわらで楽しそうにするやつらを眺めていると、だんだん腹が立ってきた。  有無を言わさず引っ張って来たくせに、自分たちだけ楽しそうにしやがって。  ちやほやしろとは言わないが、もう少しフォローしてくれてもいいんじゃないだろうか。  ついさっき河太郎を邪険にしたばかりだというのに、暁治はそんな勝手なことを考えた。  とはいえ、ここでの生活を満喫したいと、最初に言ったのは暁治である。思惑からはズレてはいるのだが、彼のために連れて来てくれたのは間違いない、と思う。そして暁治は大人だ。二人の手本にならなければ、とも思う。  ため息をつくと、横に転がした釣竿を手に立ち上がった。 「どうしたの、はる?」  きょろきょろと辺りを見回す暁治に気づいたらしい。朱嶺(あけみね)が釣竿を置いてこちらへ来た。持ってきたクーラーバッグを開ける彼のそばに座り込む。クーラーバッグの中には、釣った魚を入れようと、水を凍らせたペットボトルが転がっている。 「釣った魚なら、まだバケツの中だよ?」  早速獲物を釣り上げたらしい。小ぶりながら魚が泳いでいる。 「いや……」 「あ、もしかして餌?」 「まぁ、な」 「なるなる、それなら早く言ってよ」  朱嶺は軽くそう言うと、かたわらの石をひっくり返した。尖った石で土を掘り返す。 「ほら」 「うわっ!」  笑顔で差し出されたものを見て、暁治は思わず仰け反った。  昔はここに遊びに来ていて、野山を駆け回ったり虫捕りなぞもしたりしたものなのだが、ご無沙汰のうちにすっかり苦手になってしまったようだ。  手の中でうごうごする細長いものが、特に害を与えないことはわかってはいるのだが。 「練り餌とかはないのか」 「持って来てないよ。ミミズがいやなら川虫捕る?」 「……これでいい」  浅瀬とはいえさすがに準備もなく川に入る気にはなれない。ここでミミズが苦手だとバレたら、なんだか馬鹿にされそうな気がして、うにょうにょするのを思い切ってつかむと、えいやと針に引っ掛けた。  釣りなど夜店のどじょう釣りか、ここに遊びに来たとき友達とやったザリガニ釣りくらいしか経験はない。  親が一緒のとき、一度だけ祖父たちと海釣りに行ったくらいだ。  手ほどきを受けつつ、釣り糸を投げる。  あのとき父親や祖父たちが垂れていた釣り糸と違い、川釣りは流れによって投げるポイントや釣り方があるらしい。  だが手応えを感じても、餌だけ取られて戻ってくる。 「おぉ、これはなかなかのエモノですな!」 「うふふ~、これなら食べ応えありそうだよね。でもちっこいのも天ぷらにしたら美味しいよ。パリパリ骨まで食べられるし」  どうやら持って帰って食べる気らしい。どこの家に持って帰る気だろうか。どうせ料理するのは暁治だろう。勝手なことである。  これでも自炊派だし、料理をするのは苦ではない。だがどちらかと言えばきっちりするのが好きな暁治は、一週間分の食材回しは考える方なのだ。予定が狂うと冷蔵庫のあれやこれが無駄になりかねない。いや、食費は助かるけど。  魚は鮮度が命である。とならば副菜はあれとあれでと予定を立て始めたところで、河太郎が明るい声を出した。 「パリパリでしたら沢がにはいかがですかなっ。素焼きもいいですが、から揚げにすると酒のつまみに最高ですぞ」  河太郎は徳利から酒を注ぐと、盃をくいっと煽る真似をする。なかなか堂に入った仕草である。 「こらそこ、未成年」  だがさすがにこれは聞き捨てならない。青少年を導くのは、教師の役目だ。もっとも学生時代、彼が真面目だったかは疑問の余地が残るのだが。 「暁治殿っ、わたくしは未成年とやらではござらぬぞ。これでも四百年ほど生きておるし、坊も暁治殿に比べたらっ――もぎゅぅ」 「はるは天ぷらとから揚げ、どっちが好き?」 「え? そうだな、から揚げかな」  今なにやらおかしな言葉が聞こえたのだが、続く朱嶺の声に意識を取られた。 「おい、大丈夫か?」  口元に手を当て朱嶺に羽交い締めにされている河太郎は、苦しいのか腕を振り回して暴れている。 「大丈夫大丈夫、ほんとカワちゃんって、照れ屋なんだから」 「いや、照れ屋とかじゃないだろ」  とりあえず外してやれと声をかけると、河太郎はよろりと膝をついた。 「うっうっ、坊は力が強すぎですぅ」 「あははっ、ごめんごめん」  しくしく泣き崩れる河太郎。だが突然はっと顔を上げると、朱嶺の背後に隠れた。ノミのようにぴょんっと飛び跳ねる。  なんだろうと暁治が思うやいなや、藪の中から大きな影が飛び出して来て、彼に向かって飛びついた。 「ワホッ!!」 「あ、みなさんこんなところにいたんですね」  続いてひょっこり顔を出したのは、この山の持ち主の息子だ。 「重い……」  バタバタと大きく振られる尻尾。暁治に飛びついてきたのは、石蕗(つわぶき)の飼い犬、ゴンスケだ。満面の喜びを表すように、暁治の顔中を舐めまくっている。舐められるのも勘弁して欲しいが、真上に乗られると体重で潰れそうだ。 「成果はどんな感じですか?」 「うん、ほらこのバケツにこんな感じ」 「おやおや、ちょうど人数分、当たりそうですね」 「我ら一同、尽力の成果ですな!」  河太郎が胸を張るが、朱嶺の後ろに隠れているので、イマイチ迫力に欠ける。 「成果ゼロのくせに」 「暁治殿こそ、ボウズではないですかぁ!」  ゴンスケの頭をなでながら暁治が茶化してそう言うと、河太郎は唇を尖らせ、ぴっぴとこちらを指差してくる。さっきは四百歳とか冗談を言っていたが、ムキになるところなど可愛いものである。 「はるってば、単純なんだから」 「え?」 「なんでもなぁ~い。あ、桃はこっちのちょっと小さい方で、ゆーゆのはこれね」 「ありがとうございます。お弁当を持ってきましたので、食べましょうか。魚はそのままだと傷むので、帰る前に捌いてしまいましょう」  背負っていたバックパックをおろすと、風呂敷に包んだ重箱を取り出す。手拭いに包まれているのは包丁のようだ。 「わぁ、ゆーゆってば気が利くね!」  そつのない神社の息子に、朱嶺は手を叩いて喜ぶ。 「先生どうぞ」  そう言って差し出される小皿には、お握りと鶏のから揚げ、山菜の佃煮。佃煮はわらびとたけのこ、キノコが和えてある。 「そうだ。ちょうどよかった。先生、後でたけのこ持って帰ってくださいね」  食べますか? とか、持って帰りますか? ではなく断定口調だ。  生のたけのこは面倒なんだけど、先っぽの柔らかいとこの味噌汁が美味いんだよなぁ。  確かに単純かもしれない。暁治は今から夕飯に思いを巡らせながら、くすりと笑ってお握りにかぶりついた。

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