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第十四節気 処暑 次候*天地始粛(てんちはじめてさむし)

 昼の陽気はまだまだ夏といった感じだけれど、朝夕の風が少しばかり涼しくなってきた。もう八月もあとわずか。都会と違って、田舎町は季節の移り変わりがわかりやすい。気づいた頃には秋の風が吹くのだろう。  そんなことを考えながら、暁治(あきはる)はバスの窓から見える景色を眺めた。日が昇り始めた頃に叩き起こされて、弁当を作らされて、そのおかげでなにかを注視していないと眠くなる。  かみ殺しきれないあくびが出るが、車内には暁治、そして朱嶺(あけみね)とキイチしかいない。二人は暢気に口を開けて居眠りしている。自分を布団から追い出した張本人たちのその姿に、暁治は苛立ちを覚えた。  だがここで自分まで寝てしまうと、目的地を通り過ぎてしまいそうだ。このだらしない寝顔を撮ってさらしてやろうかと思うけれど、彼らはカメラには写らないのだと最近知った。  花火大会の夜に撮った写真。そこにあの笑顔は残っておらず、花火だけが写し撮られていた。ためしに家で猫と戯れている桃も撮ってみたが、結果は同じ。  人と変わらずにそこにいるように思っていたので、その時は不思議な気持ちになった。 「次は野が原」 「あっ、おい起きろ。次だろう」  停車ボタンを押してから、隣にある赤茶色い髪と前にある黄色い頭を叩く。二度、三度叩いてため息を吐くと、ようやくもぞもぞと二人は身体を起こした。 「ほら、お前たちで荷物を持て」 「ええっ」 「烏に昼飯はなしにゃ」  二つのクーラーバッグに重箱が一つずつ。保冷剤代わりのペットボトルが入っていてそれなりに重量がある。先に立つキイチと、ぶつくさ言う朱嶺に押しつけて、暁治は手ぶらでバスを降りた。  足元はスニーカー、長袖のTシャツに長ズボンという三人が降りたのは、山の入り口だ。バスで通り過ぎた道脇に人家は点在していたが、ほかになにもない。ぽつんとある停留所に立って、これからの道のりに気が重たくなる。  昨日の昼飯時、朱嶺が挨拶回りをしていない社へ行こうと言い出した。夏休みが終わったらますます行く機会がなくなる、とのことだが、暁治的には山登りはそれほど得意ではない。  しかし家でのんびりしていたいと言ったら、冬の参拝はキツいよと返されて、渋々了承した。今日はこのあとほかに二ヶ所回る予定だ。山登りをするのはここだけと聞いて、早々に済ませて帰ろうと、軽快な足取りの二人を追う。 「昼間だったら暑くて登る気にならなかったな」 「でしょー! 朝一番に出てきて良かったよね」 「大口を開けて寝てたくせに」 「バスの揺れって眠くなるよねぇ」  へらりと笑った顔に目を細めつつ道を踏みしめる。見た目だけではなく体力的にも若いのか、朱嶺もキイチもペースが速い。こんなところで体力の差を感じたくなかったと、つい独りごちてしまう。  それでも少しすると、暁治のパワー不足に気づいた二人が歩みを緩やかにした。ほっと息をついて滲んだ汗を拭った頃、道の先にいるキイチが両手を振る。 「暁治! もう少しにゃ! 頑張るのにゃ!」 「とぉちゃーく!」  数分遅れでキイチが立っている場所に着くと、朱嶺は声を上げて万歳をした。時計を見るとバス停から一時間半ほど。長い道のりだったと暁治は手を伸ばす。するとすかさずその手に冷たいペットボトルが渡される。  いい具合に溶けたスポーツドリンクを喉に流し込めば、身体に染み渡るような心地になった。 「ここはなんの神様だ?」 「僕たちの町とか、この辺りの町を護ってくれてる土地神様の社だよ」 「えっ? そんなに偉い神様の社、こんなに小さいのか?」  改めて見回すとひらけた場所は大した広さではない。精々半径二メートルと言ったところだ。社もそれほど大きくなく古ぼけている。石蕗家の稲荷神社のほうがよほど立派だろう。それでもさやさやと風が吹くその場所は、優しい静けさがある。  空気が澄んだ、凜とした空間。ふうわりそよいだ風に頬を撫でられて、暁治はハッとする。いま誰かに耳元で囁かれたような気がした。 「なんだかここは静かなのに、すごく大きな気配を感じる。すっぽりなにかに包み込まれているみたいな」 「土地神様、はるを気に入ったのかな」 「さすが暁治にゃ」  持ち寄った酒と花を社に供え、三人で手を合わせる。するとまた耳元で小さな囁きが聞こえた。ふいに頭の天辺が温かくなって、暁治は目線を上げたけれど、そこに誰かがいるわけではない。  不可思議な感覚に目を瞬かせていると、バサバサと羽音が響いて鳥が一羽飛び立った。 「これから向かう社に飛んだみたいだね。はるが向かうことを知らせに行ったんだ」 「人が訪れるのは珍しいのか?」 「そんなことはないよ。どんなへんぴな場所でも、訪れてくれる人がいるから、神様は存在していられるんだ」 「確かに寂れた風ではあるけど。よく見れば社も綺麗だし、草がぼうぼうって感じじゃないもんな」 「少し前にも誰かが来てたみたいにゃ。御神酒が乾いてなかったにゃ」 「これも管理人ってやつの仕事なのか?」  ふと思い出す。祖父がこうして各所の社を参拝していたという話を。キイチの話では管理人の管理人と言っていた。人とあやかしの橋渡し。あの人ならそれはしっくりとくる。  けれど自分が? と思うと馴染む感じがしない。あの家で暮らすということは、引き継ぐことになるのか。思い至った考えに暁治は小さく唸る。 「はるは、自由でいいと思うよ」 「え?」 「正治さんも言ってたでしょ。縛られなくていいって」 「暁治がいなくなるのは寂しいにゃ。だけど選ぶのはおれたちじゃないのにゃ」  振り向いた朱嶺が困ったように笑い、隣でキイチはしょぼんとした顔をする。言葉と顔がまったく伴っていない。その表情に思わず暁治は両手を伸ばしてしまった。  両腕に抱き寄せた二人はぎゅっとしがみつくようにしてくる。  まだ答えは見つからない。正直荷が重いとさえ思う。それでも目の前にあるぬくもりを放り投げるほど、暁治は薄情ではない。 「学校も一年の約束だし、それまでに考えておく」 「ずっとずっと夏が終わらなきゃいいのに」 「冬は来ないといいにゃ」 「自由でいいとか言うわりに、お前たち全然説得力ないよな」  一年が終わらなければいい――いつになく弱気な二人の言葉に、暁治は吹き出すように笑う。なだめるように頭を叩いて、陽射しをこぼし始めた空を見上げる。綺麗に青空が広がって清々しいほどだ。 「しんみりしてる暇はないぞ。次どこだっけ?」 「隣町だよ」 「またバス移動だな」 「お腹が空いたのにゃ」  情けない音が響いて、ぴょこんと飛び出た猫耳がへにゃっと倒れる。さらにぐーぐーと鳴り出した腹の虫に笑わずにはいられない。 「まだ昼には早い、けど……まあ、おにぎり一個くらいは許してやろう」  じっと見上げてくる琥珀色の瞳に、根負けしたように暁治が息をつくと、ぱっとそれは輝いた。 「たらこのおにぎりはどれにゃ?」 「丸いのだよ」  バッグを覗くキイチに、朱嶺はわざと彼の苦手な梅干し入りを指さした。 「嘘つけ。三角だよ三角」  とっさに暁治が頭を小突けば、反対側からは猫パンチが飛んだ。しかしすばしっこくそれを避けて、朱嶺はにんまりと笑う。  さらにはおどけたように舌を出して、トントンと跳ねるように駆け出した。その姿に呆れたため息がこぼれる。 「そんなにエンジンかけっぱなしで、途中でガス欠になっても知らないぞ」 「このくらい平気だよ! はるは正治さんより体力ないなぁ」 「うっ、……じいちゃんが元気すぎたんだよ!」  朝早くからラジオ体操だ散歩だと連れ出された数日。あれはどうやら日課だったようだ。生前もほとんど欠かすことがなかったと聞かされて、舌を巻いた。  暁治も散歩くらいはしていたが、ラジオ体操があんなに大変だと思ったのは初めてだった。子供の頃の柔軟さを懐かしんでしまったほどだ。 「ほらぁ~! 行くよ~!」  これからのことを考えて、ラジオ体操第二くらいまでこなせるようになるか、などと真剣に考えた夏の終わり。またふうわりと頭を撫でられた感触がした。

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