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第十四節気 処暑 末候*禾乃登(こくものすなわちみのる)

 視線の先、あぜ道の両脇で稲穂が揺れている。季節を感じる風景を暁治(あきはる)はぼんやりと見つめた。揺れるバスの車内では、制服姿の少年少女たちがお喋りに勤しんだり、携帯電話に夢中になっていたりする。  長い夏休みが終わり、二学期が始まったのだ。時間というのはあっという間に過ぎるものだと、どこかしみじみとした気分になる。しかし早いのも道理。  休みの後半は祖父母がお盆で帰郷して大わらわであったし、そのあとは社巡りだと朱嶺(あけみね)にあちこち連れ回された。終わりに集中せずに、もっと予定を組んで欲しいと思ったが、おそらく祖父に言われて思い出したのだろう。  管理人の仕事はかなりおろそかなのでは、と想像できた。 「暁治、今日の弁当は入れてくれたか?」 「入れたよ。タコさんウィンナーと甘い卵焼き」 「やったにゃ、……あっ、ありがとう」  休み中すっかり猫語になっていたキイチも、学校が始まると普通の高校生だ。いまから昼飯を楽しみにしているのか、隣の笑顔はピカピカになっている。 「忘れずに朱嶺にも渡せよ」 「烏に弁当なんかいらないのに」  むぅっと口を尖らせた横顔をなだめるように、暁治はキイチの頭を撫でる。夏休みはほとんど居着いていた朱嶺だが、休みが明けると自分の家に帰っていった。忙しそうにしているが、遊びほうけたツケが回ってきたに違いないと思っている。 「しっかり勉強してこいよ」 「おう!」  バスを降りるとキイチは友人の姿を見つけ駆け出した。その後ろ姿を見て、朝から元気なものだと感心する。 「おはようございます」 「宮古先生、おはようございます。今日は朝からですか?」 「そうなんです。時間を交換したので」  職員室に顔を出すと、先生方がにこやかに挨拶を返してくれた。実家が農家、という人が多いので、こんがりと日焼けした顔が多い。かくいう暁治も夏のあいだにかなり日に焼けた。 「これ、宮古先生の分の郵便です」 「ありがとうございます」  自席について時間割を確認していると、ふいに封筒の束を渡された。それに思わず首を傾げてから、印刷された名前を見てああ、と合点がいく。 「パンフレットか。休み中に取り寄せてたんだった」  生徒から相談を受けた時に、ほかにも同じように進路に悩む子がいるかもしれないと、美大や専門学校などの資料を頼んでいた。夏休みが明けたので順次発送されたのだろう。  封筒から取り出したものを一冊ずつ確認して、付箋を貼っていく。学校以外に予備校や奨学金の資料などもある。 「お金は国立にしてもそれなりにかかるからなぁ」  暁治自身も大学は給付型の奨学金を受けた。いまでこそつまずいているが、当時はコンクール入賞も常連で、将来性のある絵描きの卵として認められていたのだ。  箔がついていなければ受けられないと言うことはないが、この手のものは審査が厳しい。応募するとなるとしっかり勉強する必要がある。 「俺は恵まれているんだろうな」  細々とした収入があり、まだ画廊からも見捨てられていない。親には好きなことしなさいと言われ、周りにはまだ期待をかけてもらえている。  この場所でずっと暮らしていくのか。そのことに悩むのは、このままのらりくらりとした生活で終わりたくないという思いがあるから。暁治の中で絵に対する情熱が失われていないがゆえだ。 「もっと絵が描きたいな」  生徒たちに絵を教えていると、その気持ちが強くなった。がむしゃらに描いてみたい。それ以外が頭から抜け落ちてしまうほどに。  そう強く思えば思うほど、片田舎の学校の先生で終わりたくないという考えに行き着く。チャレンジすることを諦めたら、人生がそこで終わってしまいそうだとさえ思う。 「老後を決めるのはまだ早いよな」  資料を眺めながら暁治の口からぽろぽろと独り言がこぼれる。そして小さく唸ってから、自分に言い聞かせるように頷く。  今日から新しい絵を描こう。そう決めたら頭の中のキャンバスに、様々な色が散りばめられた。 「あ、佐山さんだ」  書類を整理していたらふいに机の上で携帯電話が震えた。表示された名前は画廊の担当者だ。朝早くからなんの用だろうと思いつつも通話を繋げる。  スピーカーからは相変わらずのはつらつとした声が聞こえた。佐山は暁治より少し年上で、向こうもまだ業界では駆け出しだ。だが目利きは大した物で、彼が見つけてくる作家は九割の確率で花を咲かせる。 「今日はどうしたんですか?」 「いえ、宮古さんどうしてるかな? と思いまして」 「わりと元気でやってますよ」 「そうですか。お忙しいのかな? 進捗はいかがですか? 新作とか」 「ああ、さっき新しいのを描こうかなって思ったところです」 「そうですか! 楽しみです!」  明るい声を上げた彼に暁治は思わず笑ってしまった。こういった抜群のタイミングで声をかけてくるのも、佐山ならではだろう。独自のアンテナが頭の上についているのではと、つい勘ぐってしまうくらいだ。 「宮古さんはそちらの水が合っているんでしょうかね。最近の作品は評判がいいですよ。柔らかく優しくなって。元々画力がずば抜けていらっしゃいますけど、温度が感じられると近頃は絶賛されてます」 「そう、なんですか。気持ちにゆとりが出たのかも?」 「それはいいですね」  明るい声につられて、これからの展開などを話し込んでしまったが、ふと時間を思い出し慌てて通話を終わらせる。授業の内容を指さし確認すると、暁治は大急ぎで美術準備室へ向かった。  このところ考えることが増え、ぼんやりすることが多かったけれど、今日は久しぶりに一日すっきりとした気分で過ごせた。晩夏の夕暮れ、あぜ道を歩きながら暁治は息を吸い込み、そして長く息を吐く。  気持ちが軽くなると身体も軽くなるものだ。踏み出す足がいつもより軽やかで、鼻歌まで歌ってしまった。 「夕陽の紅はこんなに鮮やかだったっけ?」  携帯電話を構えて沈み行く夕陽を画面に収める。眩しいほどの光に目をすがめながら、自然のキャンバスの美しさ――それに感嘆の息をついた。 「はーるー! おかえりー!」  のんびりと歩いていると、道の先でぴょんぴょんと跳ねる人影が見えた。夕陽に透けて真っ赤になった髪色で、誰かは一目でわかる。 「今日は来たんだな。……なんだ、それ」 「これ? 花火! サトちゃんが夏の残り物だってくれた」  朱嶺が振り回していたビニール袋に視線を向けると、開いて中を見せてきた。買ったらそれなりにしそうな、手持ち花火セットが三つほど入っている。 「崎山さんにお礼は言ったか?」 「もちろん!」 「でもなんでいまごろ花火?」 「桃ちゃんが花火を見たいって言うから」 「へぇ、桃が?」 「いまはもうこの町で花火は打ち上がらないからね」 「昔はやってたんだ」 「うん」  懐かしそうに目を細めた横顔にふぅんと相槌を打って、たどり着いた我が家にただいまと声をかける。そうするとバタバタと廊下から足音がして、キイチが顔をのぞかせた。 「暁治! おかえりにゃ!」 「にゃぁ~」  大きな猫の足元に小さな白猫。我が家の一員になった子猫は『雪』という名前になった。つけたのはもちろん桃だ。五十音シートで指さしして教えてもらった。雪のように真っ白いから、ということらしい。  柱の陰から顔を見せた名付け親に暁治が笑みを返すと、ほんわりとした笑顔を浮かべる。 「バケツと、ろうそくと、ライターは、これでいいか」 「はる、早くー!」 「お前たち全部出すな!」 「早く火をつけてにゃ!」  花火に火がつく前から騒がしい二人に急かされて、空き缶にろうそくを立てる。ライターでそっとそこに火を灯せば、すぐさま朱嶺たちが花火に火をつけた。すると火薬の焦げる匂いが広がり、薄明るい庭に小さな華が二つ咲く。  縁側で小さく手を叩く少女は至極嬉しそうに笑った。はしゃぐ声と秋の訪れを感じさせる虫の音。桃の隣に腰かけた暁治は、持ち出したスケッチブックの上に鉛筆を走らせた。

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