6 / 14
第6話
朝起きて、部屋の隅に置いてある大きな姿見を見る。泣いたせいで赤く腫れた目。伸びた髪は、それを隠すのに丁度よかった。学校で僕の赤い目元を気にする人はいないし、そもそもそれに気づく人だっていない。だから僕も、何も気にせずこのまま学校に行く。…いつもなら。
「…ミツ」
小さな声で、彼の名前を呼んでみる。鏡に映る、何も服を着ていない素肌を晒したままの僕が自嘲気味に笑った。日に焼けることを知らない、真白い体。その白さに隠れるようにして、薄い腹のあたりには白く乾いた昨夜の名残がこびりついている。親指の腹でこすれば、ぼろぼろと剥がれ落ちる汚い欲の象徴。ため息が零れて、その場にしゃがみ込むと、太ももの間を伝うどろりとした感触に、吐き気がした。
僕のこんな姿を彼が見たら、どう思うんだろう。
三年生になって、最初の日。クラス表の前に集まる生徒たちより一歩離れたところで、つまらなさそうな顔をしていた彼を見た。乾忠光。彼のことは知っていた。身長が高くて、顔も整っていて、父親が社長。ハイスペックで恵まれた環境にいる彼だけど、彼自身は気取らず親しみやすい性格で、いつも誰かといる。色んな噂が飛び交って遠巻きにされている僕とは大違いだ。まぁ僕のこれは、自業自得なんだけど。
そんな彼と目が合って、どうしたらいいかわからなかったからとりあえずへらりと笑っておいて、教室で座っていると声をかけられた。
話してみるとなるほど、これは人気者になるわけだ。僕の汚い噂なんか彼には関係ないらしく、気づけば昼食を共にする仲になっていた。
「ミツくん」
こんな僕が、隣にいていい人じゃない。
そう思うのに、君が優しく笑って僕の隣に並ぶから、距離を置くタイミングを見失ってしまった。このままじゃ、いけないのに。
君は僕を、他の生徒と同じように扱ってくれるけれど、実際は噂なんかよりもっと汚くて救いようのないことをしているって知ったら、どう思うんだろう。
時計を見る。針は6時を少し過ぎた頃を示していて、シャワーを浴びる時間は充分にある。全部、全部洗い流して、今日は一緒に過ごすかわからないけれど、彼が目を輝かせたお弁当を作ろう。
僕を秋ちゃんと呼んで笑うミツに、無性に会いたくなった。
***
秋彦と初めて昼休みを一緒に過ごしてから、また数日が経った。毎日付きまとうと嫌がるかと思ったが、次の日も秋彦に昼休みの予定を聞いたら「勝手に今日も来ると思ってた」と少し恥ずかしそうに言われたので、その次の日からはお互い何も言わずとも一緒に過ごすようになっていた。宇佐木が連れ立って教室を出る俺たちを見て「今度俺も連れてって」ときらきらした目で言ってきたが、あの場所が俺たち以外の生徒に知られるのがなんとなく嫌で、適当にあしらっている。
秋彦もさすがに慣れてきたのか、朝後ろから声をかけても肩を揺らすことはなくなった。
が、いつものように声をかけて、振り返った秋彦を見て、今日は俺がびくりと肩を小さく揺らしてしまった。
「...秋ちゃん、どしたの」
秋彦の目元が、ほんのり赤くなっている。泣いたあとの余韻に見えて、俺はわかりやすく動揺した。
俺にそれを指摘されて、秋彦は決まり悪そうに目を逸らした。
「よく見てるなあ。バレないかと思ったのに...恥ずかし」
「...なんかあった?」
「なんも。昨日寝る前に見た映画で、ボロボロ泣いちゃって」
嘘だ。直感的にそう思った。まるで前もって用意していた言い訳をすらすらと読み上げているような物言いに、顔が引きつりそうになった。だめだ、我慢しろ。
秋彦は何も言わない俺を見て、不思議そうに小首を傾げる。
その仕草に、俺はまだ俺の知らない秋彦を覗き見た気がして、誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべた。
「…そっか。何見たの」
「去年か一昨年ぐらいにやってた猫と飼い主が旅に出るやつ」
「あー、それ俺も見た。映画館で泣いたわ」
「えっ、意外。ミツも映画見て泣くんだ…」
「たまに思うけど、秋ちゃんって俺のことなんだと思ってるの?」
俺は、秋彦の嘘に乗ることにした。まだ付き合いも浅いし、もしかしたら嘘じゃないのかもしれないけど、どうしても感じた違和感を拭うことはできなかった。
せめてもの反抗というか、小さな仕返しで秋彦の鼻をむぎゅっと摘まんでやると「んぇっ」と間抜けな声が聞けたので、それで満足することした。
「秋ちゃん、昼さ、今日俺購買寄ってくから先行ってて」
「うん、わかった」
ふわり、と秋彦が柔らかく笑む。これでいいんだ。俺はきっと教室にいる他の生徒より秋彦と少しだけ仲が良いけれど、秋彦が引いた一線を越えることはまだできない。それができるところに、俺はまだいない。
ともだちにシェアしよう!