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第8話

 宇佐木と話したあと、腕時計を見て俺は慌てて外へ出た。思ったよりも話し込んでいたようで、休憩時間はあと半分と少ししか残っていない。すっかり通いなれた温室への道を足早に通り過ぎていく。秋彦は先に弁当を食べているだろうか。優しい彼のことだから、俺が来るまで待っているかもしれない。けれどそんなことを抜きにしても、早く秋彦の顔を見たかった。  舗装されていない細道を抜け、温室が見えて、ふう、と一息つこうとした瞬間、――どくり、と心臓が嫌な音を立てた。  温室の前に、秋彦がいる。秋彦と、もう一人―― 「――悪いけど、誰かと付き合う気はない」 「!」  それは秋彦の声だった。相手への嫌悪感を一切隠そうとしない、彼が人をはっきりと拒絶するその冷え切った声を、初めて聴いた。  一度止まってしまった足は、再び動くタイミングを逃してしまったようで、俺はその場から踏み出せないままでいた。向こうからは死角になっていて、秋彦ともう一人の…男子生徒はこちらの存在に気付いていないようだった。俺はつい、そのままじっと息を潜めて様子を窺ってしまう。  伸びた草木の陰からそっと見知らぬ生徒を覗き見る。ちらりと見えた横顔は、一切見覚えがない。1年か2年か、それとも3年か。ネクタイの色が見えればそれもわかるが、俺がいる場所からそこまでは確認できない。 「…先輩、色んなヤツに股開いてるって噂、本当なんですか」 「そうだよ。でも僕、本命を作る気ないんだ」 「…それなら、もうセフレでもいいです」  先輩。その呼び方で彼が下の学年であることが分かる。けど、それよりも。彼の言葉をあっさり肯定した秋彦の言葉に、すうっと胸のあたりが冷えていく感じがした。これは、どういう感情なんだろう。嫌悪感? それでも、俺の足はここから離れようとはしない。  秋彦の声はずっと冷たく硬いまま、対して相手の声には段々と力が入っていく。ざり、と靴が地面を擦る音がして、生徒が秋彦に詰め寄る。彼の手が細い秋彦の手首を捉えて、秋彦は何を考えているか分からない顔で、ただじっと目の前の男を見つめている。  生徒は抵抗しない秋彦の腰を抱いて、――冷えた胸のあたりが、今度は一気に爆発するように熱くなった。 「何やってんの」 「!」 「…ミツ、くん…」  自分でも驚くほど冷たい声が出た。生徒はびくりと肩を揺らして、秋彦から離れる。俺は二人の間に割って入って、彼が離した秋彦の手首を、今度は俺が掴んだ。秋彦を背中に隠すようにして生徒を見る。ネクタイの色は暗い赤、新入生だ。一見普通の、どちらかというと大人しそうな見た目をしているが、入学早々二つ上の3年生に手を出そうとするあたり、中身までは大人しくないらしい。 「俺の友達に何か用?」 「…いえ。すみません」  苛立ちが、隠しきれない。ちらりと後ろの秋彦を見ると、さっきまでの無表情はどこへいったのか。動揺、戸惑い、そんな感情が滲み出た顔をしている。不安そうに揺れた瞳が俺を見て、またすぐに伏せられた。  生徒はさすがに俺に噛みつく気はないようで、気まずそうに目をそらしたあと、ぺこりと会釈して背を向けて去っていった。その小さな背中が完全に見えなくなって、俺はやっと詰めていた息をゆっくり吐く。  秋彦の空いた手が、手首を掴んだままの俺の手にそっと触れる。 「…ミツ、ごめん、痛い…」 「え? あっ悪い!」  その弱弱しい声に、慌てて手を離す。知らない間に結構な力が入っていたようだ。秋彦は「ううん」とゆるく首を横に振るだけで、黙り込んでしまう。俺も、どう声をかけたらいいか分からずに視線をさ迷わせていると、校舎から昼休憩終了のチャイムが鳴った。その音に思い出したように俺の腹が間抜けな音を立てる。  俯いていた秋彦の顔が上がって、目が合った。 「秋ちゃん、お弁当食べた?」 「…ううん、まだ。ミツのこと、待ってた」 「そっか、ごめん待たせて。今更戻っても間に合わないし、一時間だけサボらない?」  温室を指して笑うと、秋彦がやっと、微笑んだ。けれど、やっぱりいつもの笑顔とは違うように見えて、放っておけばどこかへ消えてしまいそうで、俺はそっと秋彦の手を引く。何か言うかと思ったが、秋彦は何も言わず、きゅっと手を握り返された。手は、冷たかった。  まるで小さな子どもようだ。迷子の子どもに、こっちだよって道を教えてあげているような。さっきまで、あの1年の前にいた彼はもうどこにもいない。どっちが本当の秋彦なのか、分からない。  温室の中に入って、いつもの場所に向かい合って座る。テーブルには秋彦の弁当袋がちょこんと置かれていた。お互い自分の昼食を広げて、小さな声でいただきますと言い合う。  俺はずっと、秋彦に対して何かを深く聞いたことがなかった。噂のこともしかり、秋彦自身に関することも何も、聞かなかった。それは俺が他人にも自分にも興味を持てないこととは関係がなくて、無遠慮に聞いていいとはどうしても思えなかったからだ。だから呼び方は変われど、俺と秋彦の距離は実のところ最初に声をかけたあの日から何も変わっていない、ような気がする。  でも、今日ばかりはその態度を貫くことは、できなかった。 「…さっきの、知り合い?」  ぴたり、と秋彦の手が止まる。  無言で首が横に振られる。俺の目を見ようとは、しない。 「ごめん。ちょっと話、聞いてた」 「…そう、なんだ」  硬い声。さっきの人を拒絶するような声じゃなくて、どこか怯えを含んだ、そんな声。  ごめん。そんな声が、聞きたいわけじゃない。俺は、ただお前と、普通の友達になりたいだけで。普通の友達になるためには、きっとこれは必要な話で。普通の、…普通の友達って、なんだ。 「気持ち悪いよね。ごめん」  お前のそのごめん、は、一体何に対しての謝罪なの?  秋彦は否定をしない。嘘も、つかない。だからきっと全部、本当のことなんだろう。  彼が色んな男に、自ら体を明け渡していたことは、きっと事実だ。  気持ち悪くなんてない。そう、言ってやりたかった。けれど言ったところでそんな言葉は嘘くさくて仕方ないだろうし、実際、心のどこかでそう思う自分も、確かにいる。  噂なんて、本当でも嘘でも関係ない。ただ田貫秋彦がどういう人間なのか、気になっただけ。そう思って声をかけたはずなのに、俺はいつから身勝手に彼の潔白を信じるようになっていたんだろう。  声をかけて、話して、話しやすかった。気が合う、そう思った。だからこいつは良いやつだ。  馬鹿野郎。本当のことを知る勇気がなかっただけだ。体のいい言葉を並べて、秋彦を大事に思うフリをして、俺の中で勝手に作り上げていた田貫秋彦という人間が崩れることを恐れただけだ。  

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