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第12話

 屋上から飛び出して、久しぶりに全力で走る。とにかく早く温室へ行きたくて、階段を一段飛ばしで駆け下りた。あっという間に息が上がって胸が苦しい。校内の生徒は必死な顔して走る俺に驚いた顔を向けるも、そんなのいちいち気にしていられない。靴を履き替える少しの時間も惜しくて、俺は上履きのまま外へ出た。  たかだか1週間、通っていなかっただけなのに、温室へ続く道がどこか懐かしく思える。整備されていない、草木が生え放題の道を抜け、温室を形作るやけに年季の入った枠組みが見えて、俺の足はようやくその動きを止めた。  温室の中に、人の気配はない。 「…秋彦?」  名前を呼んでみるも反応はなく、俺はとりあえず中に入ってみることにした。温室の中は1週間前とさほど変わった様子はない。俺が座るために出してきた椅子もそのまま同じ場所にあって、安心した。これで片付けられていたら、心が折れていたところだ。俺のメンタルはそんなに強くない。  つい椅子の有無を確認したが、いつも秋彦が座っている席には秋彦の弁当袋がぽつんと置かれたままだった。どうやらここには来ていたらしい。だというのに、秋彦の姿はない。  じわり、と嫌な予感が胸の内に広がる。鼓動が早くなっているのが自分でもわかる。  いや、まさか。そんな。いやいや。トイレに行ってるだけかもしれないじゃないか。  これがここにあるということは、少なくともここには絶対戻ってくるはずだ。腕時計を見る。昼休みが終わるまで、あと10分。  椅子に座って待ってようと思ったところで、ざり、と靴の擦れる音がした。 「!」  振り返る。温室の入り口の前に、秋彦がいた。  秋彦は信じられないものを見るような目で俺を見ている。なんだよ、その顔。初めて見たわ。 「…秋彦」 「~~っ」 「あっ、おい!」  ――俺が名前を呼んだ瞬間、固まっていた秋彦が弾かれたように動いた。  くるりと俺に背中を向け、そのまま走り出す。まさか逃げるとは思わなくて、一瞬反応が遅れたものの、俺もすぐに温室を飛び出した。追いかけて、違和感を覚える。秋彦の動きがなんか、ぎこちない。  焦ったものの、あっという間に俺の手は秋彦の手を掴む。そのまま尚も逃げようとする秋彦の体を後ろから抑え込むようにして腕の中に閉じ込めた。  その時ふわり、と微かな香水の匂いが鼻を掠めて、俺は思わず眉を顰めた。秋彦が今まで香水をつけていたことは、ない。  秋彦は俺の腕から抜け出そうと体をよじっているが、動きの割には対して力が入っていない。俺は、もしかしたら力が入らないのかもしれない、と思った。 「っはなして…!」 「秋ちゃん」  耳元で彼を呼ぶ。腕の中の体が強張るのが分かった。俺に触られるのはそんなに嫌かと悲しくなるが、ここまで来たらもう俺だって意地でも逃がしてやる気はない。 「…い、で」 「…秋ちゃん?」 「見ないで…」  その一言で、秋彦がここに戻ってくる前に、何をしてきたのか分かってしまった。  嗅ぎなれない香水の匂い、皺の寄った制服。動きがぎこちなかったのは、体が痛むからだ。 「…秋ちゃん、顔、見せて」 「……」 「大丈夫だから」  強張っていた体から、力が抜ける。何も言わない秋彦の華奢な肩を掴んで、俺は久しぶりに、秋彦と向き合った。  今にも泣きそうな瞳と目が合って、秋彦は両手でそれを隠してしまう。まるで小さな子どもみたいだ。恐る恐る背中に手を回してみる。さっきは勢いで抱きしめてしまえたのに、一旦落ち着いてしまうと、もう一度触れるのには勇気が要った。それでもこんなところでヘタレを発揮している場合ではない。  秋彦はもう逃げようとはしなかった。お互いに何も言わないまま、しばらくして、秋彦の手が弱弱しく俺のシャツを掴んだ。 「なんで来ちゃったかなぁ」 「秋ちゃんと、話したくて」 「…僕にはない」 「俺にはある」  少し体を離して、俺より少し低い位置にある秋彦の頭を見下ろす。相変わらず長い前髪をそっと指でかき分けると、赤い目元と、濡れたような瞳が俺を見た。  眉が下がって、薄い唇が小さく震えて、秋彦が困ったような笑みを浮かべる。 「ミツの、そういうちょっと強引なところ、嫌い」 「秋ちゃんの意外と面倒くさいとこ、俺は好きだけどね」  ぽすん、とふわふわの癖毛が俺の肩に押し付けられる。初めて撫でた秋彦の髪は、見た目に反して触り心地が意外にごわついている。 「この間は、ごめん」  情けないことに、声が震えた。秋彦は何も言わない。  沈黙がいたたまれなくて、秋彦が大人しくしているのをいいことに、指先でふわふわの癖毛を触る。梳かすように指を通していると、段々と手に馴染んでくるようだった。  そうしていると昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴って、なんだかデジャヴを覚えた。 「…秋ちゃん、授業出たい?」 「いい。…疲れたから、サボるつもりだった」 「はは、不良だ」  秋彦がやんわりと俺の胸を押す。せっかく抱きしめた体を離したくなくて渋っていると、秋彦は「もう逃げないよ」と笑った。  諦めたのか、なんなのか。とにかく秋彦は、俺と話をしてくれる気になったらしい。  二人で温室の中に戻って、いつもの席にいつものように座る。落ち着いて向かい合って座ったところで、秋彦の服装の乱れが目に入った。  いつもしていたネクタイはなく、胸元のボタンは開いていて普段は見えない鎖骨が覗いている。なんだか見てはいけないものを見てしまった気分になって目を逸らすと、それに気づいた秋彦がバツが悪そうにボタンを閉めた。 「この間、僕が言ったこと覚えてる?」 「…普通じゃないから、ってやつ?」 「それも…そうだけど。男の人に不思議とモテるっていう方」  秋彦は目を伏せて、ぽつりぽつりと話した。  昔から電車で痴漢に遭ったり、変な人に声をかけられたり、夜道で襲われかけたり、とにかく男に性的な目で見られることが多かったこと。高校1年の時に、先輩たち複数人からそういった行為が行われたこと。それから何度か同じことが繰り返されて、気付けば自分からそれを求めるようになっていたこと。  アルコールやギャンブルに依存する人がいるように、秋彦は自分にとってのそれが性行為なのだと言った。  

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