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第2話
第二章
「ほら、葉月! 早く起きないと保育園遅れるよ! 兄ちゃん鞄の準備しておくから、お着替えしちゃいなさい」
葉月の部屋のカーテンを開け、部屋に朝日の光を入れる。一月の朝は寒い。起きたくないのか、葉月はまだ布団に包まったままだ。
「ん〜兄ちゃん、おはよ……」
再び夢の世界に落ちそうな葉月の身体をベッドから起こして、用意してあった着替えを手渡した。まだ五歳。もちろん失敗もあるが、一人で出来ることは一人でが睦月の子育てにおいてのモットーだ。
ふわっと小さな手であくびをする口を押さえる、そんな葉月の仕草は睦月と瓜二つだ。まるで幼い頃の自分の姿を見ているようだと、鏡に映る自分の顔をチラリと見た。
サラサラと癖のない真っ黒の髪に、色白の肌、大きな目を縁取る睫毛は女の子に見間違えるほどに長い。さすがに高校に上がってからは黒い学ランのお陰で周囲に男子と認識されているようだが、ほんのりと赤みが指している唇も要因の一つだと自分では思っている。
高校二年生になっても、睦月の身長は百六十八センチと決して大きいとは言えない。顔は父似だと言われるが、華奢だった母に似た体格で身長もおそらく百七十手前で止まると読めていた。
亡き父はまあまあ大きい方だった気がするが、彼ほどではないと記憶している。別にマッチョになりたいとは思わないし、まだ五歳の葉月には取り敢えず希望を持ってほしいが。
「兄ちゃん、朝ご飯なぁに?」
洋服を両手いっぱいに抱えて、葉月が着替えを始めた。
孤児である自分たちには贅沢な、駅近高層マンションの二十階、5LDKのこの家が住まいだ。
睦月は床暖房の効いた部屋でオタオタと着替える葉月を横目に、保育園の鞄の中に、コップやタオル、歯ブラシを入れていく。
「今日の朝ご飯は、葉月の好きなフレンチトーストと、緑のお野菜さんたちです」
「お野菜さんたち、食べないと泣いちゃう?」
「そう、食べないと泣いちゃうよ。ほら、手と顔を洗っておいで」
「はぁい」
廊下を出て、パタパタと洗面所へ走る後ろ姿を見送って、睦月の部屋の右隣にあるドアをチラリと見る。
「昨日も仕事遅かったのかな……」
扉の前に立ち、シンと静まり返った部屋のドアを二、三度ノックしたが、中からは物音一つ聞こえてこない。
キッチンに掛けられたカレンダーには、担当と打ち合わせとあった。ならばそろそろ起こした方がいいだろう。今度は強めにノックをし、鍵のかかっていない部屋に足を踏み入れた。
「陽《よう》さん?」
このお高い分譲マンションの持ち主である、浅黄《あさぎ》陽に声をかける。
寝室には百八十以上ある陽の身長に合わせた大きいベッドとデスク、それに本棚が置いてあり、ベッドはこんもりと盛り上がったまま、微かに上下している。
睦月はベッドに近寄ると、頭までかぶった羽布団を肩まで剥がし身体を揺すった。
「陽さん、今日編集さんと打ち合わせじゃないんですか? 朝ご飯出来てるんで食べましょ?」
毎日遅くまで仕事をしているのを知っているだけに、寝かしてあげたいのは山々だが、打ち合わせに遅れてはまずいだろう。
「ん……む、つき?」
寝返りを打った陽がこちらを向いた。
(寝てても美形とか……っ)
睦月は見惚れそうになる自分を戒めて、キュッと唇を噛んだ。
遮光カーテンの隙間から微かに入る太陽光で、陽の髪はキラキラと光っている。一見怒っているようにも聞こえる不機嫌そうで平坦な声色は、十二歳から一緒に暮らしていることでもうすっかり慣れた。話し方に抑揚があまりないだけで、声を立てて笑うことだってあるのだ。
「昨日遅かったなら、あと三十分くらい寝かしてあげたいですけど、俺学校行っちゃうから、そしたら陽さん起きないでしょ?」
そう、これから葉月を保育園に送りがてら、睦月は高校へ向かわなければならない。時刻はすでに七時を過ぎている。朝食は食べ終えているにしても、洗濯物を干していたら多分ギリギリだ。
「お前……よくわかってんな」
陽はのっそりと大きな身体を起こし、首を二、三度鳴らしベッドを降りた。
「そりゃ、何年一緒にいると思ってるんですか……じゃあ俺洗濯物干してくるんで、朝食どうぞ」
「サンキュ」
金色の髪をかきあげる仕草に再びうっとりと見惚れてしまい、慌てて目を逸らす。浅黄陽という男はどこからどう見ても〝イイ男〟だった。
十二歳の自分もきっとわかっていたのだろう。しょっちゅう陽の髪に触っては綺麗だと喜んでいた覚えがあるのだから。
髪色だけではなく、スッと通った切れ長の目元に高く整った鼻梁、ゴツゴツしているわけではないが、シャープな顎は朝になると薄っすら髭が生えている。
小説家という家に引きこもっていることが多い仕事の割には、引き締まった身体つきも相まって、ふとした時に感じる野性味に睦月はいちいちドキドキしてしまうのだ。
(もう、髭とか……ほんと羨ましい)
己の顎に手を当ててフッと小さなため息をつく。無い物ねだりは好きじゃない。けれどどうしたってかっこいいより可愛いと評される自分の顔、それにヒョロヒョロの自分と、引き締まった筋肉のついた身体を比べてしまう。
ああいう風になれたらなと思うより、まるで芸能人への憧れのような気持ちだ。
「あ、やば……洗濯物干さなきゃ」
時間を確認して廊下を走る。キッチンからは葉月のいただきますという声が聞こえてきた。
睦月はハンガーに一枚ずつ衣類をかけながら、ダイニングキッチンで食事をする二人に視線を送った。
(幸せだなぁ……)
親のいない自分たちが、血の繋がりもない陽と一緒に暮らし始めて五年になる。
ちょうど中学一年生に上がる歳であった睦月は、環境の変化になかなか馴染めなかったし、新生児の葉月の世話も含め、おそらく陽は大変だっただろう。
そもそも、母、那月と父、健吾の葬儀に来ていた陽は、二人の中学、高校の同級生に過ぎない。親友だったと古いアルバムで説明を受けたけれど、陽が睦月と葉月を引き取る義務は全くないし、むしろ引き取ることに違和感を覚えた周囲との軋轢に、大変な苦労があったことは想像に難くない。
それでも今、住む場所も与えてもらい、食事にも困らず、学校に通わせてもらっている。
この幸せが長く続くはずはないと、睦月にだってわかっている。
孤児である睦月と葉月を引き取ってくれた人であるけれど、ただの他人。
ずっとは無理でも、少しでも長く陽と葉月と共に暮らせないかと切に願ってしまうのだ。
いつの間にか、進んで家事をして、陽の役立てるようにとそればかりを考えるようになった。そうしたら、少しでも一緒にいられるんじゃないかと。
我ながらネガティブな思考だ。ため息を吐きつつキッチンに向かうと、陽が二人分の食器を洗い終えたところだった。隣に立つ葉月が嬉しそうに陽から受け取った食器を丁寧に拭いていく。
「あ、すみません」
「ん? 気にすんな……お前が全部する必要はないんだから。ほら時間ヤバいだろ、葉月も兄ちゃんの手伝いしたいもんな?」
「うん! 兄ちゃん、いつも忙しそうだから、僕手伝いがんばる」
「偉いな、頑張れ」
ポンポンと大きな手が葉月の頭を撫でる。羨ましそうに見つめていると、気付いた陽に笑われた。
「お前はこっちな」
チュッと額に柔らかいものが触れた。
元々撫でたり抱きしめたりとスキンシップの激しい人であったが、それに喜んでしまう自分も自分だ。わざとらしく唇を尖らせて恥ずかしさをなんとか散らした。
「い、行ってきます! 葉月、ほら行くよ!」
「はぁい、陽ちゃん行ってくるね〜お仕事頑張ってね」
「はいはい、行ってこい」
コートを着てマフラーをグルグルに巻くと、少しは体格もよく見えそうなものだが、玄関にある鏡に映るのはどこまでも細っそりとした中性的な自分の姿だ。
準備を済ませて葉月を見れば、覚束ない手つきで上着を羽織っている。
「自分で出来る?」
「ん……」
葉月の準備を待ち、リビングにもう一度行ってきますと声をかけて玄関のドアを開けた。不用心な家主のために、しっかりと外側から鍵をかけて手を繋ぐ。
「兄ちゃん、学校大丈夫?」
最近時計の読み方の練習も始めた葉月は、いつもよりも家を出る時間が遅いと気付いたのだろう。睦月はキュッと温かい手を握ると、平気だよと笑顔を見せた。
(ほんとは、遅刻ギリギリだけど)
大人の足ならばきっと余裕で間に合うだろうが、葉月を急がせるわけにはいかない。ゆっくりとした足取りで、駅の反対側にある保育園へと向かった。
「葉月くん〜おはよう。じゃあお預かりしますね〜はい、お兄ちゃんに行ってらっしゃいしましょう」
「兄ちゃん、行ってらっしゃい〜」
「はい、行ってきます」
毎日のお馴染みの挨拶を済ませ、保育園の門を出る。周りを見れば、つい十秒前までは子どもを預けるため笑顔で行ってきますと言っていた母親たちが、必死の形相で車や自転車に乗り込んでいる様子だ。
ついそんな光景にクスッと笑いが溢れた。
「あ、やばっ……俺も急がなきゃ!」
人の流れに乗るように、睦月も駅までの道のりを走り抜けた。
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