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第3話
マンションから二駅ほど離れた市立桜坂高校は、その名の通り駅から繋がる遊歩道がゆったりとした坂道になっていて、その脇には桜の木が植えてある。
しかし春でも冬でも、睦月が景色を楽しむ余裕はないに等しい。保育園から駅まで走り電車に乗っている間に息を整えると、再び高校までの道のりをひたすら走る。そんな毎日だからだ。
閉まりかけた門の隙間を潜るように睦月はもつれそうになる足を前に出した。
「……っ、はぁ……しんど……っ」
息が切れる。まだ十七の自分は体力ある方だと思うが、それにしたって駅から全力疾走はキツい。後ろで鉄製の門がガシャンと閉められる音がする。毎日門に立つ教師も、常連の睦月にやれやれといった様子だ。
しっとりと汗に濡れた額を手で拭い、息を整えながら教室までを歩いていると、後ろから肩を叩かれた。
「よっ、遅刻常習者……今日もお疲れさん」
「荒地《あらち》……おはよ」
ニカッと白い歯を見せて笑う同い年の荒地大輝《だいき》とは、中学高校と同じ学校、同じクラスという何の因果か割と濃い付きあいだ。
初めてその姿を見た時には、若干の恐怖を覚えたほど体躯のいい男で、バスケ部に在籍していると知った時には、きっと諸手を挙げて歓迎されただろうなと感想を抱いた。見上げる角度が家にいる時と同じであるから、百八十近い長身の陽と殆ど変わらない身長だろう。
「ほら、急がねえとチャイム鳴るぞ」
そう、時間内に校門を潜れたことに安堵してはならない。予鈴がなるまでに教室に入っていなければ遅刻扱いだ。この辺りで言うところの進学校である桜坂は、ルール違反をする者には案外厳しい。
グイッと荒地に腕を引かれ、下駄箱から教室までをひたすら走る。荒地と仲良くなったきっかけも、中学から遅刻常習者同士だったからという理由だ。
荒地と睦月が教室に入ると、殆どの生徒は着席していて、開いた扉の音に注目を集める。が、またかという視線を送られるだけで終わった。
「お前、相変わらず体力なさ過ぎ」
「はっ……はぁ……体力バカの荒地に、言われたくな……っ」
全く呼吸の乱れのない荒地を恨めしく思いながらも、教室に着いたと同時に予鈴が鳴った。
「ほんと、君たち仲良過ぎだろ……毎日毎日飽きずに、よく遅刻を繰り返すよなぁ〜」
ようやく一時限目の授業が終わった休み時間、隣の席に座る杉崎《すぎさき》に揶揄うような視線を向けられる。
杉崎もまた荒地同様バスケ部に所属しているため、そう筋肉質ではないものの睦月よりかは腕や足は太い。背は同じぐらいで、睦月が見上げなくとも話せる数少ない友人だった。
トイレから戻ってきた荒地も、睦月の前の席へと腰を下ろし会話に加わった。
「うっせ、仲がいいわけじゃねえよな。ただの腐れ縁だ」
「え、俺荒地と仲良いと思ってたのに……酷い」
唇を尖らせて拗ねた顔で荒地を睨めば、グッと言葉に詰まり顔を赤らめる姿がある。
「なんで照れてんの?」
こういうところが憎めない、というか可愛いというか。悪ぶった口調をしていても、好意を示せば途端に照れるところに好感が持てる。
確かに腐れ縁ではあるかもしれないが、睦月が友人だと思えるのはこの二人を置いて他にはいない。
「しかしさ、荒地は自業自得だけど、睦月は事情話せば特例とかで認めてくれんじゃないの? 毎日保育園の送り迎えしてんでしょ? 家事もやって弟の面倒も見てって、普通の高校生の生活じゃないぞ、それ」
睦月の事情を知る杉崎はそれなりに心配してくれている。荒地には、逆に遅刻常習犯を俺一人にするなと言われているが。
二人は、陽とも顔を合わせたことがあり、睦月の事情にも詳しい。
「陽さんは別にやらなくていいって言ってくれてるんだけどね……売れっ子作家だし、迷惑かけたくない。それにちょっとでも役に立ちたいって気持ちもあるしさ」
「相変わらず好きだね〜睦月の陽さんラブは今に始まったことじゃないけどさ」
こうしてしょっちゅう揶揄われているが、睦月の気持ちはそんな軽いものではない。自分の世界は陽で回っていると言っても過言ではないほど、大切な相手だ。
そして、刻一刻と離れる時間は近付いてきているのだから、少しぐらい語らせてほしい。
「ラブとかじゃないけどさ。だってかっこいいでしょ? 顔はもちろん綺麗なんだけど、それだけじゃなくてさ。そばにいると安心するし、あったかい気持ちになるし」
「はいはい、惚気はいいです」
もう聞き飽きたとでも言うように、杉崎は両手をお手上げのポーズにし呆れ顔だ。睦月がふてくされても、ちゃんと聞いてるよと適当にあしらわれる。
「でも中学の頃は陽さんが家事やってたよな。弁当とかも作ってくれてただろ?」
荒地とは中学からの付き合いだが、杉崎とは高校で知り合った。だから意外だったのだろう。目を見開いて驚いていた。
「マジかぁ、それまで一人暮らししてた男が、急に弁当作るって大変そうだな。うちの母親、中学の頃超文句言ってたし。でも血が繋がってないのにそこまでしてくれるって、睦月愛されてんじゃん」
杉崎が感心したように言った。三人の中では弁当を持ってきているのは睦月だけで、二人は購買か朝登校前にコンビニに寄っている。
確かに一緒に暮らし始めた当初は、三食全て陽が作っていた。レシピをネットで検索しながら作るのも大変そうで、俺がやりますと徐々に睦月が家事を手伝うようになった。昔両親が共働きだったこともあり、家の仕事はある程度やらされていたこともあって、慣れるのは早かった。
「陽さんは普通に溺愛だろ。まあ、でもその弁当が結構ひどくてさ。なのに、こいつ味のない玉子焼きを超美味そうに食ってた。でも三年間作ってくれてたもんな」
荒地に言われ、睦月は懐かしげに目を細めた。徐々に手伝うようになったと言っても、本格的に家事を始めたのは高校に入ってからだ。中学の頃、睦月に家事を全てやる余裕はなかったからだ。
乳幼児の葉月の慣れない育児で、毎日ヘトヘトで、自分が頑張らないととそればかり考えていた。陽は何かを言いたげにしては、口を閉ざし睦月のやりたいようにさせてくれていて、だからこそ弁当を作ってくれていたのだと思う。
今は、葉月も五歳になりだいぶ自分で出来ることも増えた。あまり我儘といった我儘も言わないため、手がかからない楽な子だ。
「それから家事やろうって思ったんだ?」
「そういうわけじゃないんだけど……甘えっぱなしなのは嫌だなって。やっぱいつかは出て行かなきゃいけないしさ、そしたら今以上に大変になるってわかるから」
大好きで、大好きだからこそ……これ以上迷惑はかけられないという気持ちが大きい。陽は確かに荒地が言うように溺愛とまではいかないけれど、自分たちを本当の家族のように大事にしてくれる。
「予行練習みたいなもん?」
杉崎の問いに、睦月は首を縦に振った。
そう、高校を卒業したらどこかに就職をして、葉月と暮らす。そのために生活能力がなければ生きていけない。
きっと陽はいつまででも居ろと言ってくれるだろうが、そこに甘えてしまうのは嫌だった。
「確かにな、陽さんってもう三十オーバーのおっさんだろ? そのぐらいってやっぱ結婚とかも考えんじゃねえの?」
結婚という言葉に、ツキリと胸が痛む。
恋人がいるという話は聞かないが、その可能性だってあるのだ。
「結婚……そっか、そうだよね……でも荒地、陽さんはおっさんじゃない」
陽が結婚する、なんて思いもしなかった。しかし言われてみれば、陽の友人の結婚式の招待状が届くことは何度かあり、その度に「あいつもついに結婚かよ」なんて懐かしみ羨ましそうな眼差しを向けていたように思える。
「はいはい、おっさんじゃねえかもな。まあ、冷たい言い方かもしんねえけどよ、血の繋がりのない子どもを何の見返りもなく育ててるってことだろ? やっぱ覚悟はしといても損はないな」
睦月の想いを代弁するかのように荒地が口にする。その通りだった。
自分たちは陽の養子ではない。引き取ると言ってくれたことは嬉しかったが、十二歳の睦月にもそれが当たり前に享受していい幸せではないと気付いていた。
陽は、那月と健吾の親友であった……ただそれだけの、赤の他人。だから、甘えるのは高校を卒業するまでと決めていたのだ。
「損はないって……でも、陽さんは本当の子どもみたいに思ってくれてるんじゃないの?」
寂しそうな表情で問う杉崎に、愛されて育ったんだなと羨ましく感じる。確かに本当の子ども以上に良くしてくれている。不自由はまったくないし、むしろ普通よりもいい暮らしをしているだろう。けれど、陽の自由な生活を奪ってしまっているのもまた、確かだ。
「そりゃそうだ……けど、それじゃ甘えだからって、名字違うんだろ?」
「名字? 陽さんの名字って黒岩《くろいわ》じゃないの? え、なんで?」
引き取るイコール養子縁組という頭があったのだろう。杉崎が疑問を口にする。葬儀が終わって後、再び睦月の前に現れた陽に養子縁組をしないかと言われたが、睦月は考えさせてほしいと告げた。
それからすぐに児童養護施設へと移った。その頃の記憶も曖昧で、よくは覚えていないが、どうすれば陽の負担が少なくて済むか必死に調べた。
「里親になってもらってるんだ」
里親ならば、養育費や里親の手当てが陽の元へ入るため、金銭的に楽になるはずだと、自分なりに考えた結果だった。
もし、陽と養子縁組をし父となった場合、陽に扶養義務が生じてしまうし、その関係を断ち切ることは容易くはない。しかし、今思えばそれも浅はかな考えであった。結婚もしていない陽が睦月たちを引き取り里親となるまでに、相当な苦労があったことは想像に難くない。
「ふうん、そっか。でもさ、どういう関係でも、陽さんが睦月と葉月くんのこと大事に想ってるのはきっとほんとだろ」
「うん……ありがと」
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