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第5話

第三章  睦月が葉月を連れて玄関のドアを開けると、部屋の中から話し声が聞こえてきた。 (もしかして、あの人、来てるのかな……)  洗面所で手を洗ってからリビングに行き、ただいまと声をかける。ダイニングテーブルを囲んで予想した通りの男が陽の隣に座っていた。 「よ、睦月くん、葉月くんお帰り〜」 「あ〜たあちゃんだ!」  陽の友人で大手出版社勤務の田ノ上充《たのうえみつる》が手を振ると、葉月は嬉々として駆け寄り彼の膝の上に座った。  陽とは大学の頃からの付き合いで、二人ともこの上なく本が好きという共通点で知り合ったらしい。  二人が話しているところを見る機会は然程多くはないが、それでも二人がかなり気を許しあってる間柄だということはすぐにわかった。自分と陽の間にある空気とはまた違った、ピタリと波長のあった会話に心が波立つこともしばしばあった。  同じ歳だからこその仲睦まじい雰囲気は、どうあっても睦月には手に入らないものだから。 「ただいま戻りました。ご飯、すぐ準備しますね。あ……田ノ上《たのうえ》さんも良かったら食べて行ってくださいね」 「いいよいいよ、お邪魔しちゃ悪いし。こいつに怒られる」 「別に食ってけばいいだろ。つーか、遠慮してる方が気持ち悪い」  田ノ上の言葉に、不本意極まりないといった様子の陽が口を開いた。 「なんで、陽さんが怒るって思うんですか?」  陽はそんなことで怒ったりはしないんじゃないかと問い掛けた言葉であったが、田ノ上は面白そうに睦月を見ると、ブッと噴きだした。 「可愛いなぁ、睦月くんは……なんで怒るかって、もちろん邪魔だからじゃない?」 「おいっ!」  邪魔、と声には出さず反芻する。もしかしたら、二人で食事にでも行く予定だったのだろうか、と考えキッチンへ向かう足がピタリと止まった。  自分が邪魔なのかもしれない、と。 「そういや睦月、お前毎日帰り早いけど、たまには遊んで帰ってきたっていいんだぞ? 葉月のお迎えだって俺がするし」 「あ、いや……居候させてもらってるのに、家事すらしないなんて。でも、すみません、田ノ上さんとご飯行く予定とかだったら、気にしないで行ってきてくださいね」  ツラツラと出た睦月の言葉に、場が静まり返る。何か変なことを言ってしまっただろうかと、陽と田ノ上の顔を交互に見つめるが、田ノ上は複雑そうに眉を寄せ、陽は瞬きもせずに絶句している。 「あの……?」 「充……悪いけどやっぱお前帰れ」 「はいはい、ちゃんと話しあいなさいよ?」  田ノ上は葉月の頭を二、三度撫でて席を立った。  通り過ぎる際に、睦月の肩を優しく叩く。それがどういう意味でなされたものなのか、睦月にはわからなかった。 「陽さん……俺、なんか変なこと言いましたか?」 「俺は、お前と葉月のこと居候だとは思ってねえぞ」  ピシャリと言い切られ、ドクンと心臓が高い音を立てる。座れと顎をしゃくられて、葉月の隣の席へと腰を下ろした。 「いそーろーってなあに?」  葉月の場違いな明るい声が室内に響く。どう答えていいのやらと考えあぐねていると、陽がゆっくりと言葉を紡いだ。 「他人の家においてもらうこと、だ。俺とお前らは確かに血の繋がりはない、赤の他人かもしれないが、俺は家族だと思ってる。親友の子どもって細い繋がりでも、誰にでもこんなことするわけじゃない。相応の責任も伴うからな。それでもお前らと一緒に暮らしたいって思ったんだよ。意味わかるか?」 「は、い……」  家族、という言葉が温かく胸に沁みる。それは自分と葉月の関係だけだと思っていた。家族と呼べる人は、もう葉月しかいないのだと思っていたのだ。 「陽ちゃんはお父さんなの? じゃあ、ボクはお父さんがににんいるんだ〜」 「葉月、ににんじゃなくて、二人な」  テーブルの上で組んだ手を前に出し、陽が二と人差し指と中指を立てながら葉月へと説明する。一人、二人、三人……今は三人家族だと告げた陽の表情は柔らかかった。 「家族だって……思ってもいいんですか……?」  声が震える。ずっと期待しないようにしていた。もう両親はいないのだから、自分が葉月の父親代わりになろうと考えていた。  そんな風に甘やかされたら、ダメになってしまう。 「当たり前だろ……つーか俺が悪かったよ。お前が超ネガティブ思考で、頑固で人に頼ることの出来ない性格だってわかってたのにな。五年も暮らしてて、気付けなかった」  伸ばされた手が重なった。手の甲を撫でられて、ゾクリと肌が粟立つ。頬に熱が集まると、日に焼けない白い肌は桃色に染まり妖艶な色香を放つ。睦月は目の前の男が息を呑んでいるとも知らずに、誘うように涙に濡れた目を男へと向ける。 「睦月……悪い、充に邪魔されたせいで仕事あんま進んでねえんだ、飯出来るまで篭っていいか?」  何事もなかったかのように手は放されてしまい、子どもを宥めるように頭を撫でられた。 「あ、は、はい……出来たら呼びますね」  話はこれで終わりということらしい。睦月ははぁっと深く息を吐くと、未だ高い音を立てる胸に手を当てる。  家族という言葉は、自分にとってこれ以上ないほど嬉しいはずなのに。ほんの少しだけ、ガッカリしているのはどうしてだろう。  きっと家族ごっこの終わりを憂いているのだと、自分を無理やり納得させた。  気持ちを切り替えて、夕食の準備を開始する。  フライパンで炒めた鶏そぼろと炒り卵をご飯の上に乗せて、この時期が旬のブリの照り焼きを皿へ盛り付ける。 「葉月、ご飯出来たからテーブルの上片付けてくれる?」 「はぁい」  描いていた絵を綺麗に片付け終えた葉月が洗面所へ行くのを見届けて、布巾でテーブルを拭いた。 「手洗った?」 「うん、お手伝いするね」 「じゃあ、そぼろご飯持っていってくれる?」 「はぁい」  葉月の小さな両手に丼を持たせてやると、慎重に一歩ずつ足を進めながら運ぶ動作に睦月はついフッと笑みを溢す。 「なに、笑ってんだ?」 「う、わっ」  いつの間に部屋から出ていたのか、真横から耳元にフッと息をかけられて睦月は飛び上がるほどに肩を震わせる。 「お前、驚きすぎ……今日ブリか、いいな」 「だってそこにいると思わなかったんですもん。ちょっと葉月のお手伝いの様子が可愛かったから、笑っちゃっただけです」 「確かになぁ、ついこの間までオムツしてたのに、もう一丁前に兄ちゃんのお手伝いするようになってんだもんな」 「この間はお皿割ってましたけどね、だんだん出来ることが増えて、いつのまにか手が離れていくんですよね」  赤ちゃんの頃は、人見知りが激しくて陽と睦月以外の大人の前に出るたびに泣いて大変だった。どこへ行くにもオムツや着替えなどを持って行かなくてはいけなくて、ただ買い物に行くのすら一苦労だった覚えがある。  この世に生を受けてから、たった五年しか経っていないのに、こんなにも人の気持ちを慮ることの出来る子に育ったと思えば、嬉しくて涙がでそうだ。 (ちょっと……周りの空気を読み過ぎなところはあるけど……) 「お前は兄っていうより、完全に父親だな……葉月に反抗期が来たら泣くんじゃねえか? つーか、お前も反抗期とかなかったしなぁ。これからか? 別にしてもいいんだぞ、反抗……んなことで、手放さねぇから」  カウンターキッチンの中で、キュッと手を繋がれる。絡まされた指先を持ち上げられて、軽い水音と共に温かなモノが触れた。 (え……っ、な、に……)  指先がピクッと震えると、小さく笑い声を立てて陽の唇が離れていく。ジワっと目に膜が張り、頬が紅潮した。 「睦月、顔真っ赤」 「も……揶揄うのやめてください。陽さん、綺麗だからドキドキするんです」 「へぇ、まだそう思ってくれんだ? 昔は綺麗って事あるごとに言ってた気がすんのに、最近言わなくなったから、俺もついにおじさんって思われてんだろうなってな」 「だから陽さんは、いつまで経っても綺麗でかっこいいですってば!」  荒地から三十三のおっさん呼ばわりされたことを思い出し、怒りに任せて拳を握り締めながら叫ぶと、笑いを堪えるように腹部を抱える陽の姿があった。 「クックッ……んな必死になんなくったって冗談だって、でも、サンキューな」 「お兄ちゃん、陽ちゃ~ん! もうご飯食べたい〜」  余程空腹だったのか、席に着いて今か今かと待っていた葉月が痺れを切らして二人を呼んだ。互いに顔を見合わせて小さく笑う。 「今行くから」  この二人の存在がいつだって自分を幸せにしてくれる。  胸がうるさいぐらいに音を立てることには、気付かないフリをした。  違う、違うと呪文のように何度も繰り返しながら。

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